礼拝メッセージより
規定の病
今日の聖書の最初のところは「重い皮膚病」を患っている人がイエスに近寄ってきていやしたという物語だ。しかし教会の聖書では重い皮膚病のところが「らい病」となっている。らい病は長い間伝染すると考えられていて、患者は日本でも長い間法律によって療養所に隔離されるなど差別されてきた。そのため最近ではハンセン病と呼ばれるようになっている。
この重い皮膚病と訳されている言葉は新約聖書の原文のギリシャ語では「レプラ」、旧約聖書の原文であるヘブライ語では「ツァーラト」という言葉だそうだ。けれどレプラはツァーラトが何の病気だったのかは特定できていないそうだ。それで新共同訳聖書もらい病と訳していたのを重い皮膚病という訳に変えたようだ。
そして3年程前に出た聖書協会共同訳ではこれが「規定の病」という訳になっている。
これは、レビ記13:45 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」とあって、そういう規定に該当する病ということだと思う。
レビ記にあるように重い皮膚病に罹った人は、自分で自分のことを「汚れたもの、汚れたもの」と叫ばないといけなくて、また他の病気でない人々とは別世界に生きていた。そして病気が治った時も、それを祭司が調べ、清めの儀式をしなければならなかった。そのへんのことがレビ記14章に書かれている。イエスが4節で「行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい」と言ったのはこのこと。
このように重い皮膚病の人は社会から完全に孤立させられていた。その重い皮膚病の人に話をし、その人に触れるなんてことは普通では考えられないことだったようだ。汚れている人に触れるとその人も汚れると考えられていた。だから重い皮膚病の人に触れるなんてことは言わば異常なことだった。
こんな病気は人には言えないというような病気がいっぱいある。精神的な病気などは最たるものかもしれない。病気に苦しみと共に、あるいはそれ以上に世間の目に苦しめられている、汚れていると見なされて社会から除け者にされていることに苦しめられているようだ。
その所為だろうと思うけれど、この重い皮膚病を患っている人も、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っている。治すことができますではなく清くすることができますと言っている。
新型コロナに感染したことを苦にして自殺した人がいるというニュースを目にした。夫と娘も感染していて自分がうつしたのではないかと悩んでいたそうだ。ウイルスに感染することが悪いことで、そしてまるで汚れたものになってしまうような、社会の邪魔者になってしまったような気持ちにさせられている、今はそんな風潮があるなあと思う。
重い皮膚病を患っている人もまさにそんな気持ちだったんじゃないだろうか。
中風
次に百人隊長がイエスに、中風になって苦しんでいる僕を癒してくれるように頼みに来た。百人隊長ということは当時この地方を支配していたローマの兵隊で、ユダヤ人から見れば異邦人ということになる。
イエスは自分が行っていやしてあげようと言うが、百人隊長はそれには及ばない、ひとこと言ってくれるだけでいいと答えた。するとイエスはイスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがないと誉め、あなたが信じたとおりになるようにと言って、その時僕はいやされたという話しだ。
ペトロのしゅうとめ
次にペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを見て、その手に触れると癒されたと言う話しが続いている。ここでもイエスは触れているけれど、そもそも男性が女性の手に触れるということは非常識なことだったそうだ。
いやし
本当にこんなに簡単に癒やせたのかという気持ちもあるし、だったら今でもイエスにお願いしたら癒してくれるんだろうかという期待もあるし、でも祈っても簡単に治らないことばかりでどうなってるんだろうかと思う気持ちもある。信仰が足りないから祈りも聞かれない、と言われたらぐうの音も出ないし、その通りですとしか言えないけれど。
イエスならきっといやしてくれるという希望を持つことで改善していくことは勿論あるだろうと思うけれど、祈っても祈っても治らない現実を前にすると、治してくれるという希望を持ち続けることも難しい。
今日の聖書ではイエスが病気をいとも簡単にすぐ治したように書いてあるけれど、すぐ治ったのかもしれないけれど実際どうだったんだろうかと思う。
ここでいやされたのは、当時のユダヤ教世界からは除け者にされていた人たちだった。というかユダヤ人から見たら部外者とされていた人たちだった。
正統なユダヤ人とは割礼を受けて律法を守っている人たちだったようだ。だから皮膚病で隔離されている人も、異邦人も、女性も、正統はユダヤ人ではなかった。イエスはそんな除け者にされ、差別されている人たちの所へ出掛けて行き手を触れるというような非常識なことをしている。病を癒すこともすごいことだけれど、重い皮膚病の人に触れる、女性の手に触れる、そのこと自体がすごいことだったようだ。異邦人のためにそこへ出掛けて行こうということもすごいことだったんじゃないかと思う。周りからは非常識と言われるような行為でもあったんだろうと思う。またいやされた当人たちにとってもそれは思いもよらぬことだったんだろうと思う。
そばにいるよ
病気自体もいやされたのかもしれないけれど、そのイエスの思いもよらぬ行為を通してイエスの熱い思いを感じ取ったんじゃないかな、その熱い思いが変化をもたらした、それがここで言ういやしだったんじゃないかな、とこれはちょっとこじつけかな。
社会が見捨てようが、世間が疎外しようが、私は見捨てない、そんなイエスの熱い思いがあってこその今日の話しのような気がしている。
あなたに何があっても絶対に独りぼっちにはしない、あなたがどんな状態でも見捨てない、いつもそばにいるよ、イエスのそんな思いがここにあるように思う。
祈れば病気が治ることもあるし、治らないこともある。治っても治らなくてもイエスはいつもそばにいてくれている、それこそが私たちの支えなのだと思う。そばにいるよというイエスの声をずっと聞いていきたいと思う。