礼拝メッセージより
律法破りの常習犯
イエスはファリサイ派や律法学者たちからは律法破りの常習犯と見られていたようだ。
律法と言っても具体的に指すものはいろいろあって、先ず第一は十戒、第二はモーセ五書と言われる旧約の最初の創世記から申命記までの5つの書、第三は旧約聖書全体、第四は口伝律法と言われて、律法を守ると言うことはどういうことかと具体的に解説したものがあったそうだ。
口伝律法には、例えば安息日には労働をしてはいけないので、人を癒してはいけない、2q以上歩いてはいけない、空中にものを放りなげてはいけない、それらは労働になる、というような613の具体的な戒めがあったそうだ。
ファリサイ派たちは口伝律法を守ることが律法を守ることであると思っていたようで、自分達はそれを守っていると自負していたらしい。そしてそれを守らないイエスを律法破りの常習犯という見方をしていたようだ。
イエスの生き様は、律法を無視しているかのように、そんなものには関係なく生きているかのようにも見える。ところがイエスは律法や預言者を廃止するために来たのではないと言う。廃止ではなく、完成するためという。完成という言葉は成就とも訳せる言葉だそうだ。
律法や預言者を成就するため、完成するためとはどういうことか。福音書では律法に関するイエスの言葉が他にも出てくる。
マタイ7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイ22:34-40「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」
ここでもイエスは律法なんてどうでもいいとは言っていなくて、律法の真髄とは、人にしてもらいたいと思うことを人にすること、そして神を愛し隣人を愛することだと語っている。
愛とは
ちょっと余談だけれど、愛って何なのか。ネットでこんな話しが載っていた。
【倫理の担当及び僕がいた水泳部顧問の先生。非常に強面で、怖いというか生徒は勝手に怯えてた。
あるときクラスメートが罰ゲームで「先生、愛ってなんですか?」と授業中に質問。
先生は即答で「信じ、待ち、赦すことだ」
教室が拍手にのまれた。】
違い
さっき見た22章でファリサイ派の人たちがイエスに律法の中でどの掟が一番重要かと質問したとあるけれど、ファリサイ派たちは口伝律法にある日常生活の613の戒めを守ることに一所懸命で、律法の真髄というか律法の精神というか、そんなものを見失っていたのかもしれないなあという気もする。それがファリサイ派や律法学者たちとイエスの律法に対する違いでもあるんだろうと思う。
そういうことからでもあると思うけれど、ファリサイ派の人たちは自分が律法を守っているかどうか、自分に落ち度がないかどうか、そんなこと自分のことばかり気にしていたんだろうと思う。
でもイエスは自分にして欲しいことを人にしなさいとか、神を愛し隣人を愛しなさいと言って、自分だけではなく相手を見なさい、相手との関係を大事にしなさいと言っていて、実はそこが決定的に違っているんではないかと思う。
不合格
今日の箇所に続く5:22以下に「あなたがたも聞いているとおり・・・と命じられている」という言い方で律法に関する話しが続いている。
そこには、殺すなと命じられているが兄弟に腹を立てるものは裁きを受けるとか、姦淫するなと命じられているがみだらな思いで他人の妻を見るものは女を犯したのだとか、偽りの誓いを立てるなと命じられているが一切誓ってはならないとか、目には目をと命じられているが悪人に手向かうな、誰かが右の頬を打ったら左の頬も向けろとか、隣人を愛し敵を憎めと命じられているが敵を愛し迫害する者のために祈れ、なんてことをイエスが語ったと書かれている。
そんなこと言われてもなあと思う。そんな聖人君子みたいな人間になんてなれないよと思う。
そんなこと出来ないよという話しがマタイ19:16-26にもある。
「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」
まるで自分の財産を全部売り払って貧しい人に施さないと神の国には入れないんですよと言われているようで、それに従えないあなたは神の国に入れませんよと言われているのかと思っていた。
でもこの話しのミソは、永遠の命を得るために「どんな善いこと」をしたらいいかと聞いたことじゃないかと思う。善いことをすることで神の国に入ろうとするならば律法を完全に守り、財産を売り払って貧しい人に施しなさいと言っている。要するに善いことをすることで神の国に入ることは人間にはできないことだと言っているんだと思う。
律法を落ち度なく完璧に守って合格することで神の国に入ろうとするなんてことは無理だ、口伝律法は守れるかもしれないが、腹を立てないでいることもみだらな思いを無くすこともできないだろう、イエスはそう言っているように思う。
大事なのは、口伝律法で言われているような戒めを守れているかどうかというような、自分が合格か不合格かというように自分のことだけを見るのではなく、神とのつながり、また隣人との繋がりを大事にすること、それこそが律法の真髄なのだと言っているような気がする。
愛
今日の箇所でイエスが「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言っている。
義とは正しいこと、神に正しいと認められること、神との正しい関係にあることということだと思う。そして私たちにとって神との正しい関係とは、神から愛されること、神の愛をしっかりと受け止めること、それこそが神との正しい関係なのだと思う。だらしない駄目なこの自分をひたすら愛してくれている、その神の愛をしっかりと受け止める、それこそが義なんだと思う。人間は律法を守ること、間違いを無くすことで義となることはできないけれど、間違いだらけだけれど神の愛を受けることで義となる、義とされるということだと思う。だから神の愛をしっかりと受けることこそが、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるということなんじゃないかと思う。
そして愛するからこそ、愛する者が道を踏み外さないようにと方向を示した道標、それが律法なのではないかと思う。そこに愛がなければ、その愛を見失ってしまえば、それはただのしがらみになったてしまうんだろうと思う。
人間はどうも愛を見失う習性があるみたいで、だからこそイエスは愛を見失う私たちに繰り返し愛を伝えてくれているのだと思う。
そう思うと、使い古された臭い言い方だなあと思うけれど、やっぱり聖書って神からのラヴレターなんだと思う。