礼拝メッセージより
書いてある
昔ある牧師が、マタイによる福音書4章4節の話しを楽しそうにしていたのを覚えている。その時は口語訳聖書で、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある。」。これはマタイの4章4節でしかも新約聖書の4ページだと。教会の聖書は新共同訳聖書の最初に出た聖書で、これだと4章4節は5ページになるけれど、新共同訳聖書でも後から出た聖書では1ページの分量が変わったみたいで、やっぱり4ページになっている。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』、と書いてある」の、と書いてある、というところをやたら強調していた。これは旧約聖書の申命記8章3節に書いてあってイエスはそこに書いてあると答えたんだ、という話しだった。
誘惑
今日の話しは、まず最初にイエスが40日かな断食した後、神の子なら石をパンに変えてみろと言われて、さっき言ったように申命記の言葉、人はパンだけで生きるのではないと答えたという話し。次に神殿の屋根から飛び降りてみろと言われて、あなたの神である主を試してはならないと、これも申命記6:16にある言葉で答えたという話し。そして最後に悪魔にひれ伏して拝めばみんな与えようと言われて、あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと、これも申命記の6:13にある言葉で答えて、いずれも悪魔の誘いに乗らなかったという話しだ。
新共同訳聖書の小見出しも「誘惑を受ける」となっていて、イエスが悪魔から誘惑を受けたということになっていて、イエスは悪魔の誘惑をはねのけた、悪魔に負けなかった、イエスはすごい、私たちも悪魔の誘惑に負けないようにしましょう、という話しかと思っていた。
聖書学者の中には、これはユダヤ教に対する弁明ではないかと言っている人がいるそうだ。ユダヤ人たちはやがて救い主メシアがやってくると待っていたようだ。旧約聖書にもそんなことが書かれている。けれどそこにはメシアはダビデの子と言われるような、かつてのダビデ王のように権力を持って自分達の国を再び強い大きな国にしてくれる王というようなイメージを持っていたようだ。でもイエスはそんな権力を持つことを願うようなメシア、キリストではないと言っているようだ。旧約時代から待ち焦がれていたような、ユダヤ人たちが期待するようなキリストと、実際のキリストとは違っている、その期待は的外れだということを伝えているということのようだ。
そもそも、石をパンに変えるとか、屋根から飛び降りても天使たちに支えられるというような、奇跡を起こしてくれる、奇跡を見せてくれる、人間にできないことをやってくれる、そんなことを私たちもイエスに対して期待しているのではないかと思う。
キリストなんだから、神なんだから、全能の神なんだから、出来るはずだ、出来て当然、そんな風に考えることもある。神なんだから奇跡を起こして私を助けて欲しいと願う、石をパンに変えて私を養って欲しいと思う。世界中の石をパンに変えて世界中の食糧難もなくしてくれればいいのにと思う。
あるいは誰もが認めるようなすごい奇跡を起こして自分こそが神であることを示せばいいのにとか、みんなが信じて従うような姿で登場して世界中を統治してくれればいいのに、なんてことも思う。
今日の箇所では悪魔が誘惑したというように書いてあるけれど、実は人間が神に願っていることなんじゃないかという気がしている。
的外れ
ユダヤ人たちの期待するメシア像、キリスト像が実は的外れであったように、私たちの期待するキリスト像も結構的外れになってしまっているのかもしれないと思う。全能の神なんだからこうあるべき、キリストなんだからこうあるべきと思うことがよくあるけれど、案外その多くは人間の勝手な思い込みでしかないと思う。
ある学者は「イエスは神の子であるから全能の力を持っているのではなく、神の子であるから人間の弱さを担っている。イエスは経済的豊かさ、宗教的名望、政治的権力を捨てることによって、人間である弱さの限界のただ中で、神の言葉に生き、神を試みず、神のみに仕える生き方を示した。少なくともマタイによる福音書の読者はそのように読んだ。」と言っているそうだ。
イエスの姿、イエスの行い、イエスの言葉、そこにキリストを見るように、イエスの真の姿を見るようにと言われているような気がしている。
メッセージの準備でいつも参考にしているある教会のホームページに、ヘンリー・ナーウェンという人の「イエスの御名で」という本のことが書いてあった。
カトリックの司祭さんの集まりでの講演をまとめた本だけれど、そのHPに抜粋が載っていた。
「主の務めに携わる者が経験する主な悩みの一つは、自己評価の低さに苦しむということです。今日、多くの司祭や牧師が、人々にほとんど感化を与えることの出来ない自分に気づき、悩んでいます。彼らは非常に忙しく働いていますが、際立った変化を人々の中に見出すことが出来ません。そこで自分の努力が実を結んでいないと思ってしまうのです・・・(しかしラルシュ〔知的障害者の施設〕に来てわかったことは)ますます多くの人が、どこに癒しを求めるべきかも知らないままに、深い道徳的な、霊的な障害に苦しんでいることです。クリスチャンの新しいリーダーシップの求められる場が、ここにあることは事実です・・・その使命は、すべての華やかな成功の裏に潜む苦悩と深く連帯し、そこにイエスの光をもたらすように私たちを導くのです」。
「皆さんの多くは、綱渡りに失敗した者のように自分を見ているかもしれません。大勢の人を引き付ける力がなかった、多くの回心者を生み出すことが出来なかった、魅力的な儀式を演出することが出来なかった、自分が望んだようにすべての人から人気を得ることが出来なかった、思った通りに人々の必要に応えることが出来なかった・・・しかし、重要なことは、癒すのはイエスであって私ではない、ということです。真理の言葉を語られるのはイエスであって私ではありません。イエスが主であって、私が主なのではありません。もし私たちが、(自分一人ではなく)兄弟姉妹と共に神の贖いの力をのべ伝えるなら、そのことが目に見えて明らかにされます」。
余談だけれど、この本を読んでみたくなってネットで探してみたけれど、中古しかないみたいで、定価は1,000円位なのに4,000円から5,000円位していて、それも土曜日までに届くかどうかもわからないみたいで諦めた。この人の本は昔買ったことがあって、共感するところがあったなあと思いつつ本の題名も忘れてしまっていたけれど本棚を捜してみた。そうしたらこの「イエスの御名で」という本が出て来た。すっかり忘れていた。確かもう一冊は買ったはずだけれど見つけられなかった。
「イエスの御名で」からもう少し。
「イエスは問われます『あなたは私を愛するか』。しかし私たちはイエスに問いかけます「私たちはあなたの御国で、あなたの右と左に座ることが出来ますか」(マタイ20:21)・・・痛みに満ちた長い教会の歴史は、神の民が、時には愛よりも権力を、十字架よりも支配を、導かれる者よりも導くものになろうとする誘惑にさらされた歴史だと言えます・・・これからの時代のクリスチャン・リーダーシップに必要とされる最も重要な資質は、権力と支配によるリーダーシップではなく、イエス・キリストが示してくださった、無力さとへりくだりのリーダーシップです。愛のためには権力を放棄することの出来るようなリーダーシップのことです・・・もしこれからの教会に何らかの希望があるとすれば、その教会の指導者たちが喜んで導かれるものとなることによって、貧しい教会になることでしょう。」
たまたまナーウェンの言葉を見つけた。
「私たちの人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自己を拒否することである。」
イエスの姿は奇跡と力を振りかざすものではなかった。敢えてそれを捨てた、そして弱い無力な私たちのすぐ隣りにいる、それがイエスの真の姿なのではないかと思う。自分の無力さと無能さを嘆き、自己を拒否し、自分で自分を否定する、そんな私たちを徹底的に肯定し愛を注ぐ、それがイエスの真の姿なのだろうと思う。
的外れにならないように、真実のイエスを見なさい、イエスにこそ神を見なさい、マタイはそう告げているように思う。