礼拝メッセージより
ユダヤ教
イエスの時代のユダヤ教は、3章7節に出てくるファリサイ派とサドカイ派、そしてエッセネ派というのがあったそうだ。
ファリサイ派は特に律法の遵守を大切にして、聖書を読めない民衆にも律法を教える派閥だったけれど、当時は主流派ではなかった。当時力を持っていたのは祭司たちの属するサドカイ派だった。ユダヤ人たちは罪を贖うための生け贄を買い、それを神殿の祭司に渡して焼いてもらっていた。また神殿を維持するための税金も払っていたようだ。その祭司たちのグループがサドカイ派で、ローマ帝国の支配下ではありつつ、ユダヤ人に対してはサドカイ派が力も富も持っていた。だから律法を厳格に守ることよりも、自分達の権力を維持すること、既得権益を守ることの方が大事だったようだ。
そんなサドカイ派の考えに反発して、俗世間を離れて聖書を研究し律法を守り禁欲的な集団生活を送るという集団が現れた。そういう集団をエッセネ派と呼ぶ。当時は死海周辺の荒れ野にこうした集団がいくつもあったそうだ。
ヨハネ
3章で登場する洗礼者ヨハネもエッセネ派だったと考えられているようだ。彼は荒れ野で、悔い改めよ、天の国は近づいた、と宣べ伝えていた。そして「預言者イザヤによってこう言われている人」と言われている。
イザヤ書 40:3には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とある。
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。囚われのバビロンから帰国するという新しい時代がやってくるといったイザヤの言葉になぞらえて、洗礼者ヨハネは救い主がやってくるという新しい時代の到来を告げたと言っているようだ。
悔い改め
ヨハネのもとにエルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた、と書かれている。しかしそこにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちに対しては、蝮の子らよと言って厳しい事を言っている。流石はエッセネ派といった感じだ。
ヨハネは悔い改めよ、と語った。悔い改めとは、向きを変えること。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。自分の進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改め。
私たちの人生も、全く違う方向に向かって一生懸命に進んでいるようなものかもしれない。目的地に向かって走らないといけないのに、目的地がどこなのかもわからないまま、兎に角一所懸命に走っている、目的地にむかうのが目的ではなくて、一所懸命に走ることが目的になっている、なんてことになってしまっているのが私たちの現状なのかもしれない。
そんな私たちが神の方に向き直って進むこと、それが悔い改め。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと、とその時から、罪のない人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、神の方に向きを変える、それが悔い改めだ。
神の方向へ向かって行くためにも、神の言葉を聞いていかねばならない。どっちに進めばいいのかを聞いていかねばならない。
車によくナビゲーションシステムというのがついている。複数の人工衛星の信号を捕らえて、自分がどこにいるのか分かる。そして目的地を入れておくと、次の交差点を左折してください、なんてことまで言ってくれる。
最近ではスマホにもついている。数年前東京タワーに行った時には、電車の乗り換えもスマホに教えてもらって、駅に着いてから歩いて行くときもスマホのナビを見ながらやっと着くことができた。
聖書というのは、ナビみたいなものかもしれないと思う。その信号をキャッチしていないと、自分がどこにいるのかだんだんわからなくなってしまう。いつもキャッチしていると、いつもどこにいるのか分かる、私たちの向かって行くべき方向も分かる。
聖書とは、そこにあるイエスの言葉とは、人生の迷子になっている私たちに進むべき方向を教えてくれるものだと思う。そして進むべき方向へ向きを変えること、それが悔い改めというものだと思う。
罪人の中に
荒野に登場したヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない」と言った。そこで登場したのがイエスだった。
イエスがヨハネのもとへ来ると、ヨハネからバプテスマを受けた。聖霊と火によってバプテスマを授ける、とヨハネから言われていたはずの方が、逆にまずバプテスマを受けられた。ヨハネが言っていることから考えると、ヨハネの方が何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスに何かをするなんてことはおかしいように思う。しかしそのおかしいことをイエスはされた。
イエスはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、悔い改めのバプテスマだった。そのことから考えれば、キリストであり罪のないイエスがバプテスマを受ける必要はなにもなかったはずだ。
なのにイエスはバプテスマを受けた。なぜなんだろうか。ヨハネも不可解だったのだろう、最初ためらったけれども、イエスは正しいことをすべて行う事は、我々にふさわしいことです、と言ってバプテスマを受けたと書かれている。
なぜイエスはバプテスマを受けたのだろうか。正しいことだ、と言う以上のことは書かれていないので理由はよくわからない。けれどそれはイエスが罪人の側にいたから、ずっと罪人の側にいようとしたからではないかと思う。
イエスはその後の生き様を見ると、自ら進んで罪人と言われる人の所へ出向いている。いつも罪深い、弱い人間と同じ所に立っている。イエスはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至るまで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。
バプテスマを受けられたのもそんな罪人と同じ所で罪人の中で生きる、私たち罪人と同じ世界で生きる、という決意の表れだったではないかと思う。
イエスがバプテスマを受けると、天がイエスに向かって開いて、神の霊は鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になり、これは私の愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた、と書かれている。これ一体どういうことなんだろう。よくわからないけれど、神とイエスはつながっているというか一体である、イエスこそ神から遣わされたキリストであるということを伝えているのだと思う。
神自らが私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に斬り込んできた。それがイエスなのだ、と言っているということかなと思う。
いろいろな苦しみや痛みを負い、傷つけられたり傷つけたり、憎んだり憎まれたり、あるいは挫折し失敗し、いったいどうすりゃいいんだとまたそんな自分の無力さと嘆き失望する、そんなことばかりが多いのが私たちの人生だ。
けれどもそんな罪人として生きている私たちのただ中にイエスは来られた。そしてそんな罪人に語りかけた。その出発点がこのバプテスマだったように思う。そして、何があろうとお前はひとりぼっちではない、どんな時でも私がいる、今もそう私たちに語りかけてくれているのだと思う。
そのイエスの決意に応えて、このイエスと共に生きようという決意の表れが私たちのバプテスマなのだろう。