礼拝メッセージより
クリスマス
クリスマスはイエス・キリストの誕生日であるという風に思っている人が結構いるみたい。聖書にはそんなこと書いてないし実際の誕生日は分からない。なのにどうして12月25日がクリスマスなのかというと、もともとローマ帝国でミトラ教という太陽神を崇拝する祭りが冬至である12月25日に行われていて、その祭りを取り込むようにしてキリストの誕生をお祝いするようになったそうだ。それもキリスト教会ができてから大分経ってから200年か300年位経ってから始まったそうだ。
ヘロデ
今日の聖書ではイエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれたとマタイは伝えている。ヘロデ大王はたいへんな野心家だったそうだ。ヘロデ家というのは、もともとイドマヤ人と言って、つまり旧約聖書に出てくるイスラエルとも呼ばれたヤコブの兄弟のエサウの子孫だった。ユダヤ人から見ると遠い親戚ではあってもイスラエルの12部族ではない異邦人だった。
しかしヘロデの父がたいへんな野心を持った人で、ユダヤ教に改宗し、ユダヤの王家の血統の奥さんをもらうなどして王家に近づいていた。また当時その地方一帯を支配していたローマ帝国の皇帝に取り入るというようなこともして、ユダヤの中での地位を固めていったそうだ。そして息子のヘロデが今日の聖書に出てくるヘロデ王と呼ばれる人だ。彼はローマの後押しでユダヤのハスモン王家を倒して王になった。
このヘロデは非凡な才能もあったようで、各地に大きな建築物を建てて、エルサレム神殿の大規模な修復拡大もしたそうだ。しかし自分が王位を奪ったハスモン家から迎えた妻を殺し、息子たちも王位を狙っていると疑って殺してしまったそうだ。そんな残酷な人間でもあったそうだ。
マタイはそのヘロデ王の時代にイエスがベツレヘムで生まれたと書かれている。ベツレヘムはエルサレムの南7kmにあるそうだ。
メシアはかつてのダビデのような偉大な王として正当なダビデ家の家系から生まれる、だからダビデも生まれたベツレヘムで生まれると言い伝えられていたそうだ。
占星術の学者
そして今日の聖書は、イエスが生まれた時、ヘロデ王の所に東の国の占星術の学者が尋ねてきたという話しだ。
占星術の学者という言葉は原文ではマゴスという言葉だそうだ。このマゴスは今のイランにあたるペルシャの宗教であったゾロアスター教の祭司階級に属し、天文学に通じている星占いや夢解きの専門家だ、とものの本に書いてあった。暦は星の動きから作るわけで、いつ種を蒔けば良いかなんてことも判断する基になっていたんだろうから、その暦を管理する天文学の学者はとても大事な務めだったのだと思う。さらに星の動きによって世の中の動きを知ることもできるという考えもあったようで、この占星術の学者はただの占い師じゃなくて、とても大事な役目を持った王の参謀、政府高官というような人たちということになるようだ。
その学者たちが星を見てユダヤ人の王の誕生を知り、先ずはヘロデのところへやってきて、その後星に導かれて幼子であるイエスを探し当て、宝物を献げて礼拝し、別の道を通って帰って言った、というのが今日の話しだ。
成就
星がイエスのところへ導くなんてまるでおとぎ話みたいだなと思う。
現代の感覚で言うと星が導くというのはどういうことなのか、さっぱり分からない。夜の星座の中を惑星は不思議な動きをしているように見えるけれども、現代ではそれは地球も惑星の一つとして他の惑星と同じように太陽の周りを回っているからだというが分かっている。他の輝く星は何光年も、何万光年も、何億光年も彼方にあることを知っている。そんな星が学者たちにユダヤ人の王の誕生を知らせるということがあり得るとはにわかには信じられない。その星が先だってイエスがベツレヘムのどの家にいるのか教えてくれた、なんてことは有り得ないと思う。
実は旧約聖書の民数記24:17、19に「ひとつの星がヤコブから進み出る。・・・ヤコブから支配する者が出」る、という言葉がある。またイザヤ書60:6に「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が述べ伝えられる。」という言葉もある。
マタイは旧約聖書で語られていたことが成就したというような言い方を通して、かねてから約束されていた救い主、キリストが遂に生まれたということを伝えようとしているのだと思う。
聖書がまとめられた当時は、地上での特別な出来事を星が知らせるというか、神が天から星を動かして知らせているというような宇宙観を持っていたわけで、いろいろなできごと、例えばアブラハムの誕生もイサクの誕生もモーセの誕生も星が知らせたという言い伝えもあるそうだ。マタイは星によって学者たちを導いたという言い方を通して、イエスの誕生は実は神の計画によって引き起こされた特別な出来事であったということを伝えているのだろうと思う。
マタイはこの物語を通して、イエス誕生の時に不思議なことが起こったということよりも、イエスとはどういう方なのか、旧約聖書の時代から約束されていた救い主はどういう方なのかということを伝えようとしているのだと思う。
ベツレヘムで生まれたということも、かねて旧約時代から待望されていた正当なメシアであるということを言いたいんだと思う。
生き様
そして今日の話しでは、ユダヤ人の王が生まれたと聞いてヘロデ王は不安になったとあるが、それだけではなくエルサレムの人達もそうだったと言われている。ユダヤ人の王がメシア、救い主のことであるということは誰もが理解しているようだけれど、メシアがやってくることを待っていたユダヤ人たちはイエスの誕生を喜ばず、逆に異邦人である占星術の学者たちはイエスを捜し当てて喜び贈り物を献げたというのだ。
ユダヤ人たちは、ユダヤ人に生まれて律法をしっかり守っている自分達こそ神に選ばれ神に愛されていると自負していたようだ。ユダヤ人ではない異邦人は、地獄の釜の薪として生まれたなんてことを言っていたそうだ。またユダヤ人であっても律法を守れない病人や羊飼いたちのことを罪人だと言って見下していたらしい。
しかし旧約聖書のこともよく知っていたはずのそのユダヤ人たちよりも、異邦人である占星術の学者たちの方がイエスを探し当てて喜んだ、そして高価な贈り物を献げて礼拝したとマタイは書いている。
これはユダヤ人に対する皮肉も込められているような気にしないでもないけれど、マタイはここで、キリストはユダヤ人を救うためだけに来るのではなく、異邦人をも救う、全人類を救うそんな救い主であるということを告げているのだと思う。
またルカによる福音書ではキリスト誕生の知らせはまず羊飼いに届いたと書いてある。ユダヤ人が律法を守れない罪人だとして差別し見下していた人達だ。どちらの福音書もキリストに最初に会ったのは、ユダヤ人たちが差別し除け者にしていた者たちだっっと書いてある。
イエスの誕生物語は、実は生まれた時の状況はこうでしたよという記録ではなくて、その後にイエスの生き様を暗示する序章、プロローグなんじゃないかという気がしている。つまり差別され除け者にされた者たちを大事にし共に生きてきた、そんなイエスのことをこれから伝えますよというプロローグなんじゃないかと思う。
予想外
実際にはイエスが誕生した時に、この子がキリストですよ、ここでキリストが生まれたんですよ、なんてことを知っていた者は誰もいなかっただろうと思う。そして多分実際にはイエスの誕生したときに特別なことはなにもなかったんじゃないかと思う。恐らく世間の誰にも気づかれずに、静かに片隅に生まれてきたんだろうと思う。
福音書をまとめたマタイも、誕生の時に特別なことがあったと聞いたからイエスがキリストであると信じたというのではなく、イエスの生き様や振る舞いを知り、イエスの語った言葉を聞き、そこに感動し慰められ癒されたからこそ、イエスが救い主である、キリストであると信じたのだと思う。そしてそんなイエスの生き様を伝えるために福音書をまとめたのだろうと思う。イエスがユダヤ人だけではなく全人類の救い主なんだと知ったから、今日の物語を通してそのことを伝えようとしているのだと思う。
そしてマタイは福音書を読む人達も自分と同じようにそのイエスの言葉に出会ってほしい、そして自分がそうであったように感動し、励まされ、癒されてほしい、そう思って福音書をまとめたのだと思う。
特にマタイはユダヤ人に向けてこの福音書をまとめているようで旧約聖書を引用して、あの言葉はここで成就したという言い方を度々している。イエスはまさに旧約聖書で約束されていたキリスト、救い主だということを告げている。
しかしイエスの言葉は、ユダヤ人こそが神に選ばれ愛されているというような、そして決められた儀式を落ち度なく守ることこそが神に喜ばれるというような、かつてユダヤ人たちが聞かされてきたようなこととは全く違うものだった。それとは正反対のもの、つまりユダヤ人が差別し除け者にしていた弱く小さい者を神はしっかり見つめているということを教えてくれるものであった。
一人ではない
私たちは生まれてからいろんな脅威にさらされて生きている。それでは駄目だ、そんなことでは駄目だ、まだまだ駄目だ、そんな声に攻撃されて傷ついている。そして自分でもそんな自分では駄目なのだと思うようになっている。人からの攻撃ならばなんとか守ることもできる、逃げることもできる。しかし自分の中から、もっとちゃんとしろ、もっと頑張れ、やっぱりお前は駄目だ、そんな声が湧き上がってきたら逃げようもない。そんな自分で自分を責める時、いったいどうやって自分を守ればいいんだろうか。
ある牧師がこんなことを書いていた、「私は時に、身の上にある重荷に耐えきれず、絶望の中に追いやられる時がある。朝、床から身を起こすことが異常に辛い時があり、目がさめた時にその絶望が頂点に達する時もある。」
これを読んで自分だけじゃないんだと思った。自分の無力さといろんな不安と心配で眠れない時や、起きると同時に苦しい思いになる時がある。特に日曜日に多いような気がする。
でもこんな自分にもイエスは、お前は駄目じゃない、誰がなんと言おうと、お前自身がどう思おうと、お前は駄目じゃない、私はお前が大事なのだ、お前が大切なのだ、そう語りかけているのだと思う。
イエスは、周りからお前は駄目だ、お前はいなくてもいい、いない方がよかったと言われ、自分でも駄目な人間だと卑下し、そんな自分で自分を責め、否定し、苦しみつつ生きているものに対して、そしてもうどうにでもなれと人生を投げ出そうとしている人に対しても、あなたは駄目ではない、あなたが大切だ、あなたを愛している、大丈夫だ私がいつもついていると語り続けている。
『これがクリスマスのメッセージです。私たちは決して一人ではありません。』
(テイラー・キャルドウェル/小説家)
聖書には、私たちを大切に大事に思うイエスの言葉、愛の言葉がいっぱい詰まっている。私たちを根底から支え力付け、いろいろな束縛から解放してくれる、そんな言葉が詰まっている。そんな嬉しい言葉を携えてイエスは生まれてきた。びっくりするような神の愛を携えて生まれてきた。そしてそのイエスがいつも一緒にいてくれている。私たちは決して一人ではない、一人にはならない。だからクリスマスおめでとうなのだ。