礼拝メッセージより
系図
僕が初めて聖書見たのは、兄貴が高校で貰ってきたというギデオン協会の聖書が本棚に立てかけてあったのを見た時だったと思う。その時にはパラパラめくっただけだったように思う。
初めて聖書を読んだのは、自分自身が高校で貰ったギデオン協会の聖書だった。そしてその一番最初に今日の系図があったけれど、知らない名前ばかりでそこをすっとばして18節から読んだけれど、訳が分からずに2,3ページ読んでやめてしまったと思う。
今日はマタイによる福音書の最初の系図である。新約聖書の一番最初がこの訳の分からない系図というのはいかがなものかと思う。初めて聖書を読んでこの系図で挫折する人も多いと聞く。ユダヤ人や旧約聖書に詳しい人にとっては、馴染みのある名前かもしれないけれど、そうじゃない人にとっては非常に大きな関門みたいな気がする。
マタイによる福音書はユダヤ人向けに書かれていて、家系を気にするユダヤ人のためにいきなりこんな系図を書いたらしい。それにしてもマタイを新約聖書の一番先頭に持ってきたのは失敗じゃないかという気がする。マルコを最初にしとけば良かったのにと思う。
タマル
ユダヤは男系の社会で、この系図も基本的に男の系図だけれど、その中にイエスの母となったマリアを加えると5人の女性が含まれている。
最初に登場する女性のタマルは、創世記38章に登場する。ヤコブの息子であるユダはカナン人のシュアという人の娘と結婚して3人の息子をもうけた。そして長男エルの嫁となったのがタマルだった。しかしエルが主の意に反したので主がエルを殺したと聖書に書いてある。具体的に何があったのかは書かれていないが、子供をもうける前にタマルは未亡人となってしまった。
そういう時はユダヤでは、レビラート婚というそうだけれど、下の兄弟がいる時は、兄嫁と結婚して兄のために子孫を残すというか、兄の子孫を残すために兄嫁と結婚するというというしきたりがあった。生まれた子供は兄の子ということになるらしい。
そういうことでタマルは次男のオナンと結婚するが、オナンは子供ができても自分の子孫にはならないということで、タマルと関係はもっても子種を地面に流して妊娠しないようにしたそうだ。それが神の意志に反することだったと聖書には書いているが、次男のオナンも子供をもうけずに死んでしまう。
そうなると今度は三男のシェラが兄のためにタマルと結婚して兄のために子孫を残すことになるけれど、その時シェラはまだ子供だったようで、父のユダはシェラが成人するまでということで嫁のタマルを実家に返した。しかしユダはタマルの結婚したために上の息子二人が死んだと思っていたようで、三男のシェラが成人してもタマルを呼び戻さなかった。
時が経ち、ユダは妻が死に喪に服した後に、羊の毛を切るためにティムナという町にやってきた。近くに神殿があるらしくて、そこには神殿娼婦がいて、カナン地方では神殿娼婦と関係を持つことで女神と一つになると考えられていたそうだ。ユダが自分を呼び戻す気がないと知ったタマルは多分仕返しをしようとしてその神殿娼婦の格好をして、そこで義理の父であるユダにはばれないようにしてユダと関係を持った。後でタマルの妊娠を知ったユダは、姦淫した女は殺してしまえ、なんて言ったけれど相手が自分であるという証拠を見せられて、三男と結婚させなかった自分が間違っていた、なんてことを言ったらしい。その時にタマルが産んだのがペレツとゼラという双子だったという訳だ。
ラハブ
ヨシュア記2章に登場する。エジプトを脱出したユダヤ人たちがエリコを攻略する際に偵察隊としてエリコに斥候を送ったが、その斥候をかくまったのがラハブという娼婦だった。ユダヤ人はエリコの住人であり異邦人であるラハブに助けられてエリコを陥落させることができた。
ルツ
ルツ記に詳しく書かれている。ルツもモアブの人で異邦人だった。旧約聖書の申命記23章4節には「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」と書かれている。ルツはユダヤ人と結婚したが、夫とは子どもがないままに死別する。けれども未亡人になってからも姑であるナオミといっしょにベツレヘムにやってきて世話をし続け、ボアズにみそめられ結婚した。
ウリヤの妻
サムエル記下11章に登場する。ダビデが王宮の屋上から、水浴びをするウリヤの妻バト・シェバを見て、呼び寄せて関係を持って妊娠させてしまう。そこで戦争に行っていた夫のウリヤをエルサレムに呼び戻してバト・シェバの元へ返して関係を持たせようとする。そうしたら自分とのことを誤魔化せると思ったらしい。ところがウリヤは他の者が戦っている時にそんなことはできないと言って自分の家に帰らなかったので、ダビデはウリヤを最前線に送り出すように命令して戦死させて、バト・シェバを自分の妻とした。そのバト・シェバがソロモンを産むこととなった。マタイによる福音書ではご丁寧に、バト・シェバと書かずにウリヤの妻として、ダビデが王の立場を利用して人の妻を寝取ったということを明らかにしているようだ。
正しい系図?
そして最後にイエスを産むこととなったマリアが登場する。この五人が男社会の系図に登場する女性だ。
しかしこの系図にどれほどの意味があるのだろうか。
17節では「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまで14代である」とある。そうすると全部で42代ということになりそうだけど、アブラハムからイエスまでで41代になる。アブラハムからダビデまでは確かに14代になっている。そしてバビロンで生まれたエコンヤからイエスまでも14代になっているが、真ん中のダビデからバビロンへ移住したヨシヤまではダビデから数えないと14代にならない。
というふうによくよく見ると14代というのもあまり当てにならないらしい。ダビデの名前の文字を該当する数に置き換えて、それを足すと14になるそうで、それで14にこだわったのかもしれないという説もあるらしい。聖書の中にはそんな数字遊びみたいなことも含まれていることもよくあるみたいだから、何かしら意図的に14代にしたような気もするけれど、その意図はあまりよく分からない。14代ごとになっていたとしても、それにどれほどの意味があるのかもよく分からないけれど。
そして福音書ではマリアは聖霊によって身籠もったということになっていて、そうするとヨセフの血は継いでいないことになる。血のつながりを大事にするということならば、ヨセフの系図には何の意味もないんじゃないかという気になる。ヨセフではなくマリアの方の系図を載せるべきなんじゃないかという気もする。
真ん中に
マタイがわざわざ大層な系図を、しかも初っ端に載せたのはどうしてなんだろうか。実はそんな血のつながりとかいうようなことよりも、イエスは旧約聖書時代から綿々と続いてきたユダヤ人の歴史を全部背負って生まれてきたということを言いたいんじゃないかなという気がしている。系図の中に登場する女性には異邦人も含まれる。ということはイエスはユダヤ人だけではなく全人類を背負って生まれてきた、全人類の救い主として生まれたきた、ということを言いたいのではないかなと思う。
キリストが祝福の基であるアブラハムの家系に、そして偉大なダビデ王の家系に生まれるという、選ばれた民であると思っているユダヤ人にとってはとても聞き心地のいい話しという形になっているのかもしれない。けれど敢えて異邦人の女性の名前を載せているということはユダヤ人ということにこだわりを持つこと、自分達だけが特別に神に愛されていると思っているユダヤ人というかユダヤ教の人々に対する批判でもあるのかもしれないと思う。
しかもタマルやウリヤの妻のことを敢えて書いてあるということは、罪や穢れや欲望を持つ、そんな誰にも見せられない知られたくないような恥ずかしい思いを持つ、そんな本性を持つ人間のただ中にイエスが生まれてきたということを伝えたいんじゃないかと思う。
神というと、罪や穢れとは無縁なところ、それとは真反対な清い聖なるところにいるはずだ、そして罪や穢れを最も嫌い、罪や穢れに染まった者を罰する、というように思いがちではないかと思う。
系図を出すにしても、人間のどろどろした欲望や過ちなんてものを排除してもよかったんじゃないか、こんな立派な家系に、こんな立派な先祖のもとに生まれましたと言ってもいいんじゃないか、そうした方が聞こえも良かったんじゃないかと思う。なのにマタイどうしてそうしなかったんだろうか。
マタイは敢えて人間の醜い思い、どろどろした欲望、そんなものに目を向けさせようとしているのかもしれないと思う。そしてそんな思いを持ちつつ生きている人間のただ中にイエス・キリストは生まれたということを言おうとしているのではないかと思う。
イエス・キリストは罪や穢れを洗い落とした、綺麗な世界に生まれたのではない、それどころかどろどろした醜い思いを持つ人間の真ん中に生まれ、今もそこにいてくれていると伝えているのではないかと思う。
どろどろした思いを引き継ぎながら生まれ、迷いながら苦しみながら生きている、そんな人間のためにイエスは生まれてきたんだということを伝えたいのではないかなと思う。
誰にも知られたくない恥ずかしい思いを持ち、取り返しのつかない失敗をし、どうにもならないことをいつまでも後悔してしまう、そしてどろどろした欲望と心配と不安とが渦巻く、そんな苦しい思いが積み重なっている私たちの心の真ん中にイエスは来てくれた、そしてイエスはこの私たちの苦しみも悲しみもみんなひっくるめて受け止めてくれる、分かってくれるそんなキリストだ、救い主だ、マタイはそのことを私たちにも伝えてくれているのだと思う。
「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(森有正『土の器に』p.21)
そこでしか会えないのかどうかは分からないけれど、「人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。」、そんなひとりだけで、独りぼっちで悶々としている、そんな心の奥底にイエス・キリストは来てくれるのだ。決して誰にも見せられない、知らせない、そんな心の奥底にイエス・キリストは来てくれるのだ。私たちを決してひとりぼっちにしないために、何があってもどんな時にもひとりぼっちにさせないために、イエス・キリストはそのために生まれた、そのためにこの地上にやってきてくれたのだと思う。
このイエスを心に迎えること、心の奥底に迎え入れること、それこそがクリスマスだと思う。