礼拝メッセージより
祈り
僕は前々から、というか今でもそうだけれど、祈ることが身についていないというか、自然に祈る当たり前に祈るということがなかったように思う。子供の時には、家族でお祭りや初詣で近くの神社に行っていた。その時に祈れと言われて、何をどう祈っていいのか分からなくて、頭がよくなるように位しか思い浮かばなくて、それも自分の願いを思い浮かべただけで、相手に訴えるというか聞いてもらうというか、そんな気持ちにもなれずに、ただ祈ってるような格好をしているというすごく居心地の悪い思いをしたという記憶がある。
教会にいくようになってバプテスマを受けて教会員となって少ししてから、確か来週の礼拝でということだったと思うけれど、献金の祈りをしてくれと頼まれたことがあった。なんとなく引き受けたけれど、人前で祈ることなんてしたことなかったので、それからの一週間はどうしようかとずっとそのことを気にして過ごした記憶がある。
祈るという習慣のない中で育ってきて、その所為かどうか祈りってなんだろうといつも思う。人間って自然に祈るんだろうか。それとも教えて貰って祈るのか。未だによく分からないのが祈りだ。人前で祈る時なんかは、かっこ良い綺麗は言葉を使わないといけないような気になってしまう。神に祈っているというよりも、周りの人がどういう風に聞いているだろうかと心配になっている、なんてことになりがちだ。だから一緒に祈りましょう、なんていうのがとても苦手だ。当たり前に祈れる人がすごくうらやましい。
父
今日はイエスがこう祈りなさいと言われた、主の祈りと言われるものを弟子たちに教えた箇所だ。
9節で「だから・・・祈りなさい。」と言われているが、そのだからの前振りはこんな話しになっている。
『「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。』(マタイによる福音書6:5-8)
偽善者のように人に見せるために祈るな、異邦人のようにくどくどと祈るなというわけだ。偽善者や異邦人が具体的にどんな風に祈っていたのか知りたいけれど、兎に角彼らの真似をするな、そして隠れたところで隠れた父に祈りなさい、と言われている。そこで実際どう祈ればいいのかということで教えられたのが今日の主の祈りということになる。
おとん
イエスは祈るときにこう祈れと言った、それは「天におられるわたしたちの父よ」だ。神に向かって祈るときに父よと祈れと言った。子どもが父に向かって話す、祈りとはそんなものだということだろう。
ちょっと小難しい話しになるけれど、、、。
新約聖書はギリシャ語で書かれている。この箇所の父よと訳されている言葉はパーテルというギリシャ語だ。しかしイエスはヘブライ語に近いアラム語をしゃべっていたそうだ。
ではもともとイエスは何という言葉を使ったかというと、アッバという言葉らしい。マルコの福音書14:36のゲッセマネの祈りのところでもイエスは「アッバ父よ」と祈っている。この「父よ」というのはアッバの意味を知らない人のためにマルコが加えた説明らしい。という風にイエスはアッバと祈っていたようなのだ。だから弟子たちに教えた祈りでもイエスはきっとアッバと呼びかけて祈れと言われたのだと思う。
そしてこのアッバという言葉は、まだうまくしゃべれない幼児が父親に向かって呼びかける言葉なのだそうだ。今で言えばパパとか父ちゃんあるいはおとん、というような感じだろうか。つまり親しい親子の間で使われる呼び掛けで祈るようにとイエスは言ったということだ。父よ、と訳しているけれども、お父様、お父上というような、まるで座敷で正座してかすこまって深々とお辞儀をするというような言い方ではなく、幼子が父親の膝の上にちょこんと座って、父ちゃん、あのね、今日こんなことがあってね、と話すように祈れと言われているのだ。
全くもってびっくりすることだ。そんな風に祈っていいんだろうかと思うようなことだ。畏れ多いという気もする。
子
しかしそう祈れとイエスが言うのは、私たちがすでい神の子とされているからだろう。父の膝にちょこんと座っているように、神に抱かれているから、だからそのように祈って良いんだ、そのように祈りなさいと言われているのだろう。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)
かしこまる必要はない、無理に綺麗な言葉を探す必要もない、良いことばかり言う必要も長く話す必要もないだろう。幼子が父に話すような気持ちで自分の胸の内にあるものを何でも話す、それがイエスが私たちに教えてくれた祈りなのだと思う。言葉があってもなくても、父ちゃんのひとことだけでも、私たちが神の手の中に飛び込んで神の膝の上にちょこんと座ること、それこそがイエスが教えてくれた祈りなのだろうと思う。
心の奥で
ある祈りの本には、「祈りと無力さとは離すことができません。無力である人だけがほんとうに祈ることができるのです。」とか、「あなたの無力なことこそ、あなたの最善の祈りであります。」なんて書いてあった。
私たちは力を求めている。無力であることをとてもいやがる。力があることに価値があると思っている。強い信仰心さえ求めている。
しかし件の祈りの本は、無力であることこそが祈りにおいて一番大切なのだというのだ。もう全部神に頼るしかないと自分の全てを神に投げ出す、それこそが最善の祈りだと言っているようだ。
私たちの祈りは、私に足りないのは、あとはこれとこれとこれです、よろしくお願いします、と言うような祈りなのかもしれない。それよりも、もうどうにもなりません、なにもかもお願いします、このどうしようもない私を助けて下さいという、それこそが一番の祈りなのかもしれない。
「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(森有正『土の器に』p.21)
人間の心の奥には薄汚いどろどろした思いが溜まっているように思う。でもそこでしか神に会えないと森有正は言ってい。誰にも見せたくない、決して見せられない自分の恥部を、きっと誰もが持っているのだと思う。でも私たちはそこで神と出会う、そこに神はいてくれているということだと思う。
心を全部開いて祈っていけばいいのだ。自分の駄目さも無力さもだらしなさも隠さなくていい、大丈夫、お前のことは全部分かっている、そんなお前が大切なんだ、大好きなんだ、聖書はそんなイエスの言葉を私たちに伝えてくれている。祈りとはそんなイエスの言葉を心の奥でじっくりと聞いていくことなんだと思う。そして、嬉しいとか苦しいとか助けてくれという、心の底から湧き出る正直な思いを聞いてもらうことなんだと思う。