礼拝メッセージより
空しい
コヘレトの言葉には「空しい」という言葉がいっぱい出てくる。
一番最初に、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」(1:2)に始まって、もともとの最後の言葉が「なんと空しいことか、とこへれとは言う。すべては空しい、と。」(12:8)で終わっている。空しいと空しいでサンドイッチになっている。コヘレトは基本的にそういうサンドイッチの構造になっているそうだ。
その「空しい」と訳されている言葉は「へベル」というヘブライ語だそうで、「息」とか「蒸気」を意味する言葉だそうだ。聖書では「空しい」とか「空(くう)」と訳されているけれど、なんとなく意味はわかるけれど、空しいとか空とかいうのは僕自身の言葉ではないなあと思っていて、自分にとって一番ふさわしい言葉はなんだろうかとずっと考えていた。
空しいという言葉からすると、空っぽ、何にもない、何の意味もないというようなイメージが湧いてくるけれど、息とか蒸気という言葉からすると、儚いというようなイメージに近いような気がしている。
コヘレトがすべては空しいというのは、すべては儚く過ぎ去っていく、すべてはやがて消え去っていくという意味合いで言っているのかなという気がしている。
補遺
今日の箇所は後々編集者が付け加えたものと考えられているそうだ。基本的に「わたしは・・・した」という言い方だったのが、ここでは「コヘレトは」という言い方に変わっていることからも窺われる。
結論
11節に「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。」とある。『突き棒とは牛を誘導するための杖であり、釘は杖の先に埋め込まれました』と聖書教育に書いてあった。釘が何のために埋め込まれていたのかよくわからないけれど、要するに賢者の言葉は人々を正しい道に導くものだということのようだ。
その後の、「書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」というのはどういうことなんだろうか。編集者がコヘレトの言葉を読んで研究したけれど、なかなか結論に到達できなくて答えを見つけられなくて疲れてしまったんだろうか、なんていう気もする。学びすぎるというか、考えすぎると疲れるというのは毎週実感している。すぐ答えが見つかればそうでもないんだろうけれど、答えがなかなか見つけられないときは本当に疲れる。僕の場合は疲れる前に投げ出すことの方が多いけれど。
そして13節で編集者の結論が出てくる。「神を畏れ、その戒めを守れ。」というのが結論だそうだ。
ちょっと待て、って感じがする。それが結論かよって感じ。なんだかお茶を濁しているんじゃないのという気がする。律法主義者がいつも言ってることが結論なのかよ、考えすぎて疲れたからといってそんなありきたりなことを言ってちゃいかんだろう、そんなお茶を濁すようなことを言って結論だなんて、まるでどこかのぐうたら牧師のメッセージみたいじゃないか、という気がした。
折角いままですべては空しいと言いつつ、真剣に人生を見つめてきていたのに、そこからいきなり「神を畏れ、その戒めを守れ」が結論だなんて、、。結論はそうなるのかもしれないけれど、あまりにも飛躍しすぎだろう、空しい人生を生きる中から、どうして「神を畏れ、その戒めを守れ。」へと到達するのか、順を追って説明してくれ、という気がしている。じゃないと頭の悪い牧師には理解できないよという気持ちでいる。
良い人間には良いものが与えられ、悪い人間には罰が与えられる、神を信じていれば幸せになり、信じないものは不幸になるというような、この世の中がそんな単純明快な世の中ならば、「神を畏れ、その戒めを守れ。」と言うのは容易いだろうと思う。けれどコヘレトが言うように、善人が苦労し悪人が栄えることもあるのがこの世の現実の姿だ。神の支配はどこにあるのか、神の考えは一体何なのか、人間には知り得ない。そんな中で人はどう生きていけばいいのか、コヘレトはずっとそれを考えているように思う。
12章9節以下は後の編集者の加えたものだということは、コヘレトの言葉は、「なんと空しいことか、すべては空しい」という言葉でこの文書が終わっているということになる。この文書の内容からするとそれの方がすっきりするなと思う。そしてすごい文書だなと思う。最初も最後も空しいというなんて。どうせ空しい人生なら、どうせ儚く過ぎ去り消え去っていく人生なら、好き勝手に生きようという結論になってしまいそうだけれど、でもコヘレトはそんなことは言わない。
空しいで終わっている意味というか意図はどういことなんだろうか。それでも神はそこにいる、ということを言いたいんだろうか。
神を信じていればいつかは幸せになる、もう少し辛抱したら、あるいはこの世では苦しくても死んだ後には天国が待っているから、だから神を信じよう、という気持ちで苦しみを耐えるということも確かにあると思う。今は苦しいけれど、この苦しみの外には神が待っている、という感じかな。
でもコヘレトはただただ今を見つめている、今生きているこの世を見つめているような気がしている。ただ空しい今、儚く過ぎていく今を見つめているような気がする。空しい人生の中に一所懸命に答えを探し求めている、けれどなかなか明確な答えを見つけられないでいるんじゃないかという気がしている。 それに対して12章9節以下を付け加えた編集者は、「神を畏れ、その戒めを守れ。」という答えを持っていたんだと思う。
共にいる
今日の付け加えた所ではなくて、もともとのコヘレトの言葉自体の中に答えがあるんじゃないかとずっと考えていたんだけれど結局今朝まで見つけられないでいてどうしようかと思っていた。
今朝になって、答えはイエス・キリストではないかと言う気がしてきている。
現実は正直者が馬鹿を見るような世の中だ、全ては空しく儚い、そんな世の中だ。しかしこの世の中にイエス・キリストはやってきた。神の思いを携えてやってきた、お前が大切だ、お前が大事だ、お前を愛している、どんな時でも、そしていつもお前と共にいる、いつもいっしょにいる、そんな神の言葉を携えてやってきた。実はそれがコヘレトに対する、そして不条理の中を生きる私たちに対する答えなんじゃないかという気がしている。
依然としてこの世は不条理にみちていて、すべては空しいというような世の中だ。しかしこの私たちを大事に大切に思ってくれている神がいる、イエス・キリストがいる、いつも共にいてくれているのだ。
「風の谷のナウシカ」という映画を思い出した。確か腐海の毒で手がごつごつした病気になっている風の谷のおじさんが、他の国のお姫様と話した時のことだ。
『ゴル「この手を見てくだされ。ジル様と同じ病じゃ。あと半年もすれば石と同じになっちまう。じゃが、わしらの姫様は、この手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと言うてくれましたわい。」 』
イエス・キリストは私たちに神の愛を届けてくれている。好きだといってくれているんだと思う。私たちはそのイエス・キリストと共に生きていく、この私を愛してくれている神が、イエスがいつも共にいる、それこそがこの空しい世界を生きていく私たちの答えなのではないかと思う。