礼拝メッセージより
太陽が闇に
12:2「太陽が闇に変わらないうちに」なんて言葉がある。
太陽の寿命は100億年位だそうで、太陽が誕生してからもうすでに46億年位経っているそうだ。太陽はやがて大きく膨張して地球を飲み込む程になるそうだ。そうすると地球は丸焦げになるらしい。でその後また小さくなってやがては暗くなるそうだ。
太陽が闇に変わる、なんてコヘレトはこのとこと知ってたんかな、なんてことはないとは思うけれど。
裁き
11:9「知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。」とある。ある牧師はこの『「裁き」というのは「人生に介入する神の御業」というようなニュアンスに取って良いと思います。「若き日にあなたのするべきことをなすが良い。神はその時その時に御業を示す。それを受け入れよ」というニュアンスでしょう。』と言っている。
注解書によると、9節の後半は後代の編集者による加筆と判断されるとあった。
創造主
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)、と言われている。前の口語訳では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」という訳で、なんか格好良い言葉で好きだった。歳を取って自分には何の楽しみもないというようにならないために若いときから造り主を信じなさい,と言っているんだろうなと思っていた。造り主を信じていたら何の楽しみもないなんてことにはならないからと言われているように思っていた。
苦しみの日々が来ないうちに造り主を覚えよ、と言うわりにはその後は歳を取るとどうなるのかというような話しがずっと続いていて、創造主に心を留めよという話しとはどうもつながりが悪い気がする。
ちょっと余談だけれど、この創造主と訳されている言葉は「ボールエカー」という言葉で複数形になっていて創造主が複数というのは不自然だそうだ。尊敬に複数形ということもあるそうでそうかもしれないけれど、「ボールエカー」を「ボーレカー」に読み替えるべきという有力な説があるそうだ。そうすると「お前の創造主」ではなくて「お前の妻」を意味することばになるそうで、そっちの方が話しの筋としてもよく合うようだ。若いときにこそ妻を大事にしろ、と言う方がコヘレトには似つかわしい気もする。
創造主に心を留めよ、と言っているとすれば、造られた者はやがて老いて死を迎えるということを知っておけ、若いときから死ぬことを分かって生きよということかなとは思う。けれど話しの流れからいうと、ちょっと続き具合があまりよろしくない。
老い
3節以下は注解書によると、置いた人間の身体がゆっくりと弱くなっていく様を、家や町に譬えているそうだ。「家を守る男」とは手のこと、「力ある男は」は足、「粉ひく女」は歯のことだそうだ。4節の「門」というのは耳のこと、「粉ひく音」とはおしゃべりのことで、耳も聞こえにくくなり、口数も減っていき、朝早く起きても鳥の声もはっきり聞こえなくなってくるということだそうだ。5節の「アーモンドの花は咲き」というのは、アーモンドが白い花を咲かせるそうで白髪のことらしく、「いなごは重荷を負い」というのは歩くのが困難になる老人の姿ではないかということだった。アビヨナとはケーパーのこと、と説明があったけれど、ケーパーって何?って感じだけれど、食欲や精力を増進されるそうで、ケーパーの効き目もなくなるということだろう、そしてやがて人は死を迎えるという話しに繋がっていく。
そして8節でまたすべては空しいという言葉で締めくくり、元々コヘレトはここで終わっていたと考えられる、とその注解書に書いてあった。
空しさの中に
昔何かの本で読んだ話を思い出した。
確か盲人の人だったとおもうけれど、その人が救いを求めてでしょう、いろんな宗教を何カ所も回ったそうだ。そして目が見えるようになるためにはどうすればいいかと聞いたそうだ。一所懸命に信心すれば、一所懸命に祈れば見えるようになるとか、いっぱい徳を積めば、いっぱい献金すれば、そうすれば見えるようになると言われたそうだ。
そして最後にキリスト教会に行って、どうすれば見えるようになるかと聞いたら、そこの牧師は信じても祈っても見えるようにはなりませんと答えたそうだ。それを聞いたその盲人の人は、これは本物だと思ってそこの教会に通うようになったという話しだったと思う。うろ覚えだけれど。
神を信じて祈れば、必ずその願いが叶うならいいなと思う。この苦しみから救ってほしいと願うし、苦しい境遇を変えて欲しい、ひっくり返して欲しいと願う。或いは財産を増やして欲しいとか、名声を与えて欲しいとか、欲張りなことを求めることもある。
神を信じていれば、今とは違うものを与えてくれる、今とは違う幸せな生き方、今とは違う幸せな人生を与えてくれると期待することが多いように思う。幸せとか満足とか、それは今とは違うものにこそあると思っているなあという気がしている。
コヘレトは空しい空しいと言いつつ、ありのままの人生をしっかりと見つめていて、このありのままの人生の中に幸せとか喜びとか、そういうものを捜しているような気がしている。
神を信じれば幸せになる、神に祈ればどうにかしてくれる、と特に牧師になってから簡単に言ってきたような気がするけれど、今とは違う人生の中にある幸せを与えてくれるんじゃないかという気持ちになっていたような気がする。
でもコヘレトが空しい人生を真剣に見つめているのは、この空しい人生の中にこそ幸せがあるから、本当の幸せはこの空しい人生の中にあるからではないかという気がしている。
青い鳥の話しに似ているような気もするけれど、実は幸せはもうすでに手元にあるんじゃないかと思う。
イエスは、あなたは神に愛されている、もうすでに愛されているということを人々に伝えていた。病気を治したという話しもいっぱいあるけれど、愛されていることを知ったことによって変えられていったということが多かったんじゃないかという気がしている。
神に愛されている、それは今の人生の外側、空しい人生の外側にあるものではなく、空しい人生の内側にあるもの、空しい人生の内側にやってきたものだと思う。神の愛は空しい人生の中に、空しさの中に注がれているだと思う。
空しさがなくなることで幸せになるのではなくて、空しさの中で神の愛を受け取るところに幸せがあるのだと思う。
自分の環境も、自分自身も何も変わらないかもしれない。端から見たって何の変化もないかもしれない、でも神の愛を受け取ることで人の内側は違うものになると思う。
確かに人生は空しいことばかりで、この世は不条理に満ちている、だけれどその空しい人生の中に神の愛は注がれている、その愛を受け止めること、受け取ること、そしてこの神に生かされていることを喜ぶこと、食べて飲むことを喜ぶこと、それこそが私たちの幸せなのだ、とコヘレトは伝えてくれているような気がする。