礼拝メッセージより
パン
パンを水に浮かべて流す、ってどういうことなんだろうか。月日がたってからそれを見出すってことは、それがまた自分に返ってくるってことかな。なんだか情けは人の為ならず、っていうことみたいだな。
募金をするとか献金をするとかいうこともそうなんだろうか。次に「七人、八人とすら、分かち合っておけ」という言葉があるけれど、募金とか献金とかも、持っている者が持っていない者のために分かち合うこと、パンを水に流すのも、必要な人の為に分かち合うことを勧めているということなのかなと思う。それが巡り巡って、自分が必要になった時には自分に与えられるということを言っているのかなと思う。
災い
「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」というのはまさにその通りだと思う。地震があったり水害があったりするし、この度の新型コロナのように、1年前まではまるで想像もしなかったようなことも起こる。
この前スーパーのレジのバイトに来てる高校3年生が、1年の時には水害があって、2年の終わり頃からは新型コロナが流行して、今年は文化祭もなくなったと言っていた。思いもしなかった出来事で、こうなるだろうと思い描いていた未来が崩れ去るというか、予定していたことがその通りにいかなくなることが起こりうる、人生とはそういうものだと言っているようだ。
雨がどこでどれだけ降るか人間にはなかなか分からない、風がどっちから吹いて木がどっちに倒されるのかも分からない。南から風が吹いたら北に倒れるし、北から風が吹いたら南に倒れるし、折角蒔いても倒れた木で収穫できなくなると嫌だし、どっちに種を蒔いたらいいんだろうかと心配ばかりしても種は蒔けない、またもし雨が降ってきたら困るから、急に天気が崩れるかもしれないし、と心配し過ぎてると刈り入れもできない。人間には風がどう吹くのか、雨がどう降るのか、そんなことも分からない。そんな分からない中で生きている。
雨
関係ないけど、雨って不思議だなあと思う。大雨が降ると、これだけの水がどうして空に浮かんでいたんだろうかと思う。創世記の天地創造物語に、神が大空の下の水と大空の上に水を分けたということが書いてある。今では地上の水が気体の水蒸気となってそれが空でまた水や氷になって、やがて雨となって降ってくるということが分かっているけれど、昔の人は大空の上にも水たまりがあって、そこから時々水が漏れてくると考えていたのかなと思っていた。
でもコヘレトは、「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。」と言っていて、結構現代に近い感覚を持っているのかもしれないという気がしている。その雲がどう出来るのかということは分かってないのかもしれないけれど。
調べたところ、雲は1/1000oから1/100oの大きさの水の集まりだそうだ。それでも霧吹きの霧がゆっくり落ちるように、何もなければ少しずつ落下するそうだけれど、すごく小さくて軽いので上昇気流によって浮かんでいるそうだ。その小さい粒がくっついて大きくなると雨として降ってくるということらしい。まさに雨が雲に満ちるという感じだ。
種
それはさておき、そもそも僕は命がどうやって生まれるのかもよく分からない。命が代々受け継がれていくことは知っている。でもその根本の命はどうやって生まれてきたのか、本当に分からないなあと思う。人間は命そのものを造り出す術を未だに持ってはいないみたいだし。
そもそも例えば草の種が芽を出してどんどん成長すること自体不思議だなあと思っている。種が土の上に落ちて、そこに雨が降って土の中の栄養を吸って太陽の光を受けて成長するという仕組みはなんとなく分かる。畑に種を蒔けば芽が出て成長することも知っている。でも石ころは同じ畑の上に落ちても成長しないのに、植物の種はなんで成長するのかよく分からない。命があるからということなんだろうけれど、命ってなんなんだろうかとよく思う。
人間もこの宇宙に生まれて、地球上にある水を飲んで食べ物を食べて、出すものも出して生きている訳だけれど、どうやら身体の成分は結局は宇宙の成分と同じだそうだ。塵から生まれて塵に返る、それも宇宙の塵から生まれてやがて宇宙の塵へと戻っていく、人生はその間の出来事ということになると思う。
どうせ塵に返る、なんて思うとまさに人生は空しいという気にもなる。でもやがて塵に返るんだから、それまでの人生を大事にしよう、折角の人生を楽しく幸せに生きよう、コヘレトはそう言っているように思う。
想定外
でもこの世には思わぬこと、想像もしていないような災いも起こる。予定通りになんてことにはなかなかならない、だから「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」と言っているようだ。夜と訳している言葉は、もともと夕方という言葉だそうで、真っ暗の中でも種を蒔けと言っているわけではないみたいだけれど。
これだけ蒔いておけばこれだけ収穫があるだろうから丁度いいと思っていても何が起こるか分からない、思わぬ災害が起こるかもしれない、だから自分に出来る限りのことはやっておけと言っているような気がする。
またどこで災害が起こるかも分からない、誰が被害を被るかも分からないんだから、だから助け合って生きなさい、分かち合って生きなさい、そう言われているようにも思う。災害がないことを願うよりも、災害があるものとして、災害があるということを前提として、災害が来てもいいように準備して生きなさい、想定外のことが起こることを想定して生きなさい、と言っているように思う。
命
宇宙の塵から生まれて、やがて塵に返ると言ったけれど、もちろんこの身体はやがて塵に返る訳だけれど、でも命はどこから来てどこに帰るんだろうか。自然に生まれてきて自然に消えていくんだろうか。
命ってのはやっぱり物質とは別物のように思う。聖書では命は神から与えられたと言っている。やっぱり神から与えられたとしか言いようがないんじゃないかな、と思う。人間はただ宇宙の塵がごそごとっと集まっているだけではなくて、そこに命を与えられているというか命を吹き込まれているんだと思う。物を考える命、将来を考える命、心配する命、永遠を思う命、そして隣人を愛する命、そんな命を与えられているように思う。その命を与えたもの、それを私たちは神と呼んでいるんじゃないのかなと思う。
そしてこの命は神を求める命、神に聞く命で、神の言葉で生きる命でもある、聖書はそう告げているように思う。神から与えられ、神の言葉で生きる命、私たちはそんな命を生きているんだと思う。
どうしてこんな話しになったのか自分でもよく分からないけれど、人生には想定外のこともいっぱいあるけれど、神から与えられたこの命を、神と共に、神の声を聞きつつ、楽しく喜びを持って精一杯生きていきたいと思う。