礼拝メッセージより
現実
この前ネットを見ていると、ある殺人事件をこれは冤罪じゃないのかと調べていたジャーナリストの人のことが載っていた。無実と思える証拠がいっぱいあって、もう一度調べて欲しいと伝えても、権力を持った側を守るためにちゃんと調べることをしないでそのままにしていて、そのジャーナリストの人は自殺したなんて書いてあった。
11節以下でコヘレトが言うように、「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいているいる者が、なお、長生きしている。」、また14節にあるように、「善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。」というのがこの世の現実だ。
悪人が不幸になり、善人が幸福になると決まっていれば分かりやすいというか、そうなって欲しい、そうあって欲しいと思う。そういう社会になっていれば、良いことをしたら幸せになるんだから良いことをしましょうと勧めやすいし、悪いことをしたら不幸になるから止めましょうとも言いやすい。そうなると分かっていたら悪いことをする人もいなくなりそうな気もする。でも現実はそうじゃない。
真面目に誠実に一所懸命に生きるほど、貧しくなって苦労してしまうような、そんな不条理がまかり通っているのがこの世の中の現実だ。
神がいるから大丈夫、神に従っていれば幸福になる、メッセージの最後にそんなことを簡単に言うことが多いなと思う。でも実際にはそんなに分かっている訳じゃないし、現実はなかなかそうならない、と思うことも多い。
神を信じたら幸せになるから信じましょう、祈ったら叶うから祈りましょう、と言えたらい良いなと思う。必ずそうなるなら、単純にそうなるなら、信じましょうとか祈りましょうと言いやすいけれど、現実にはなかなかそうはいかない。
8節には「人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者も亡い。悪は悪を行う者を逃れさせはしない。」なんて言葉がある。人は将来のことは分からない、自分の死ぬ日も分からない、戦争や悪からも逃れられるかどうかも分からない、そんな無力な存在だ。
権力を持つ者に対峙する力などない、弱い小さな人間にとっては、本当に苦しきことのみ多い、そんな世の中だ。神はどこにいるのか、神は死んだのか、そう思うようなことばいっぱいある、それが現実だ。
コヘレトはそんな現実を見つつ、しかしその中で幸せを探し求めているような気がする。人間の本当の幸せとはどういうものなのか、それを探し求めているような気がする。
飲み食い
コヘレトは15節で「それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって、飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」と言う。コヘレトはこれまでも、「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。」(2:24-25)、「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。」(3:13)、「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の者で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。」(5:17)と語っている。
飲み食いし楽しむこと、それこそが幸せであって、それこそが神からの賜物、贈り物だと言う。
飲み食いし楽しむことは確かに幸せだけれど、行き着く先がそこなのか、究極の幸福は飲み食いし楽しむことなのか、と思うとなんだかちょっと拍子抜けしてしまう。
財産をいっぱい持っている、高給取りになって大きな家や車を持っている者が幸せなような思いでいるけれど、多くの財産を持つことは楽しく飲み食いをするためなんじゃないかなという気がしている。そうすると結局は楽しく飲み食いすることが究極の幸せかなという気もする。
そして案外そのことをすっかり忘れて、飲み食いすることよりも、お金をいっぱい持つことを目指したり、権力を持つことを目指したりすることを大事にすることで幸せを感じられなくなっているということかもしれないなと思う。つまり楽しんで飲み食いすることに幸せを感じられないとしたら、それ以外のもので幸せを感じることはできないということかなと思う。
続く9章では人間は善人も悪人もやがて死ぬ、死ねば全部消える、愛も憎しみも情熱も消え失せる、なんてことも書いてある。
勿論自分の死がいつなのか人間には分かっていない。それは神のみぞ知ることだ。でもいつかは分からないが死は確実にやってくる。自分も消え去る、自分が生きてきた痕跡も消え去る、だからということだろう、9:7以下では、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々を、愛する妻を共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ。」と言っている。
やがて全てが消える時がくる、だからこそ今この時を大事に生きなさい、楽しく飲み食いすることを大事にしなさい、愛する者と生きるこの時を大事にしなさい、そう言っているようだ。
不条理の中で
コヘレトは、社会は不条理の満ちているということを繰り返し語っている。それは、社会は不条理だけれど、自分の周りはおかしなことがいっぱいあるけれど、理解しがたい、受け入れがたいことがいっぱいあるけれど、そしてどうして神がこんなことを許しているのかと分からないこともいっぱいあるけれど、でもどれだけ自分の周りが不条理に満ちていたとしても、周りに押しつぶされてはいけない、あなたは自分の幸せをしっかりと守っていないといけない、飲み食いを楽しむという幸せ、日々の生活の中にある幸せ、そんな幸せを大事に守っていなさい、そう言っているような気がしている。
不条理な世の中に不平も不満もいっぱいあるだろう、どうして神はこんな世の中を正さないのかという疑いもあるだろう、けれどもその不平や不満や疑いに押しつぶされてはいけない、不平や不満や疑いを持ちつつ、あなたが心から素直に嬉しいと思う小さなこと、喜びと感じる小さなこと、それを大事にしなさいと言われているような気がしている。それこそが神様からの賜物、贈り物なのだ、だから一日一日の小さな喜びを感謝して生きなさい、そこにこそ幸せがあるんだ、そう言われているような気がしている。