礼拝メッセージより
コヘレト
テレビのチャンネルを変えていると、時々川柳とか俳句とかをやっているのに当たるときがある。昔は全然興味がなかったけれど、この頃はちょっと面白くてしばらく見るなんてことがよくある。短い言葉の中に状景が見えるような時には本当に面白いなと思う。
コヘレトの言葉も短い言葉が繋がっている。でも言葉足らずじゃないのかと思うことが多い。だいたい聖書って全体的に言葉足らずな気がして、その時の状況をもっと説明して欲しいとか、その後どうしたのか教えて欲しいとか、それに対してなんと答えたのか知りたいとか、そんな風に思うことがよくある。
コヘレトの言葉は短い言葉の中に思いを凝縮しているみたいだけれど、凝縮しすぎてガチガチになっていて噛み切れないというか、僕の力では解きほぐせないなあという気持ちになっている。
僕が教会に行き始めたころに聞いた言葉を思い出した。それは聖書を読む時には魚を食べるときのように読みなさい、魚を食べるときに骨を残して身だけ食べる、同じように聖書も分からないところは残していい、というリンカー名か誰かの言葉だった。
というわけで今日は大きな骨をいっぱい残しつつ読んでいきたいと思う。
勧善懲悪
今日の箇所でコヘレトは「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえる」なんてことを言う。今でもそんな風に思えることも確かにある。
善人が褒められ悪い者が懲らしめられるような世の中であって欲しいけれど、この世の中一筋縄ではいかない、それほど単純じゃないようだ。正しい者にはいい報いがあって、悪い者には罰が与えられるという風にはなかなかならないようだ。法律に違反すれば罰を受けないといけないということになっているけれど、必ずしもそうなってはいないのが現実のようだ。
法を犯しても権力を持っていたり、その権力を持っている人のお仲間だったりすることで罰せられないなんてこともよく聞く。おかしいだろと思うことがいろいろあることを聞く。
いろいろおかしなことがあっても、水戸黄門がやってきて最後には悪者を成敗してくれればいいけれど水戸黄門はやってきてくれなさそうだ。そもそも水戸黄門だって全く正しいのかどうかわからないし、やっぱり最後は神が登場して悪を一掃してほしいと思ったりする。でも悪を一掃してほしいと思うのは、自分は悪い側ではなくて良い側だと思っているからこそそう思うわけで、よくよく考えると自分が良い側にいるかどうかは定かではない。
そもそも良い人間と悪い人間という風に分けること自体に無理があるという気もする。多分誰にも良い面と悪い面とがあって、それが混ざり合っているんだろうと思う。
少しでも悪いところがあると罰せられるとしたら、それはとても恐いことだ。
罪を犯したことのない者
20-22節には善いことばかりして罪を犯さないような人はいないと話しになっている。そんなのは当たり前だ、とみんな思っているんじゃないかな。でも誰かが失敗したり間違がったりすると、途端にまるで自分が完璧な人間になったように彼の人を叩くことがある。
少し前ネットでこんな文章を見ました。
『今日、仕事でNYに来てた昔の同級生(←日本人)に、25年ぶりぐらいで再会した。そのひとは、かなり長いこと東南アジアのある国で暮らし、昨年東京に戻ったそうなんだけど、ひさしぶりの日本は「完璧じゃないことをみんなで批判しみんなで罰する社会」になっていることに驚いた、と言ってました。』
最近でもマスク警察なんて言葉も聞いたけれど、今の日本はまるで一度も間違ったこと、悪いことをしたことがないかのように、お互いを批判し合う社会になっているような気がする。
ヨハネによる福音書にもこんな話しがある。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
ルカによる福音書にはこんな話しがある。
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
コヘレトは16節で、「善人すぎるな、賢すぎるな」と言っているのはそういうことかなと思う。つまり、こいつは罪を犯したと言って糾弾してはいけない、そうするといつの間にか自分が罪のない人間になったような気になってしまう、人を見下げてはいけない、そうすると自分が良い人間、優れた人間になったような気持ちになってしまうと言っているんじゃないだろうか。
だから自分が善人だなんて思うな、善人になろうなんて思ってはいけない、自分が賢いなんて思うな、賢くなろうなんて思ってはいけない、そういう意味で、善人すぎるな、賢すぎるなと言っているんじゃないかなと思う。
罪人として
善人すぎず、賢すぎず、ではどうすればいいのか、それは18節に書いてある「神を畏れ敬」うことだろうと思う。そこにある「一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない」というのは何のことかよく分からない。でも兎に角神を畏れ敬うことが大事だと言っているのだと思う。そして神を畏れ敬うとは、自分も悪い面を持っている、悪いこともしてきたということを認めるということ、自分も罪人であると認めるということだと思う。
罪人であると認めるというのは実は大変なことだと思う。私も罪人です、と口で言うのは簡単かもしれないけれど、自分の心で認めるのは結構しんどいことでもあると思う。自分は間違ってないと思いたいし、ついつい弁解してしまうなんてこともある。本当は分かっているのになかなか認められないのも現実だ。コヘレトが言うように、「あなたの心はよく知っているはずだ。」と言わとグーの音も出ないなんてこともよくある。
あの時あんなことをしてしまった、あんなことを言ってしまった、なんて思うことが色々ある。あまり考えすぎると自分の存在意義というか存在価値もないかのような気になって、自分なんていない方がいいじゃないかなんて思ってしまいそうにさえなる。
マルコによる福音書にこんな話しがある。
2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
罪人として生きるというのはしんどいことだ。けれどイエスはそんな罪人を招くために来たと言ってくれている。こんな罪人をイエスは支えてくれている、愛してくれている、大事に思ってくれている、新約聖書をそのことを伝えてくれている。
そのイエスに支えられているから、私たちは自分が間違いを持っている人間であること、罪人であることをしっかりと見つめつつ、お互いを赦し合い、愛し合い、いわたり合い、支え合って生きることができるのだと思う。
コヘレトが探し求めている喜びは実はそういうところにこそあるんだということを、イエスは聖書を通して私たちに教えてくれているのだと思う。