礼拝メッセージより
手をつかねる
関係ないけど、「手をつかねる」って言葉を初めて見た。前の口語訳でも「」手をつかねる」と訳していた。知らんかった。「つかねる」は「束ねる」と同じ漢字みたいだ。新改訳は「手をこまねいて」と訳していてこれなら分かる。
虐げ
コヘレトは世の中には虐げる者と虐げられる者がいるという。そして虐げられる者を慰める者はいないし、虐げる者を慰める者もいないという。虐げられる者を慰める者はいないという現実があり、それはとても嘆かわしいことだと思う。虐げる者を慰める必要はあるのかという気もする。そんなやつは懲らしめた方が良いんじゃないかと思う。でも虐げる者も実は満たされない思いというか鬱屈した思いというか、そんなものがある、ということだろうか。
そんな虐げのある現実を前にして、コヘレトは死んだ人が幸いだ、むしろ生まれなかった者の方がもっと幸いだと言う。誰もが競争心を持って争っている、少しの優越感と膨大な劣等感にさいなまれつつ、争いの絶えないこの世の中を世界を生きることは苦しいことばかりだと言っているようだ。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という言葉あるけれど、苦しいことばかりのこの世界に生きる意味は何なのか、どうしてこのいやなことばかりの世界に生きていなければいけないのか、コヘレトはその答えを探し求めているように思う。
憩い
5節以下は、何のために働くのか、誰のために働くのか、生きる意味は何なのか、そんなことはお構いなしに兎に角お金を儲けるために、いろんなものを両手いっぱいに持つために、なんだか解らないけれど闇雲に働いている、そんな人のことなのかなと思う。或いは、兎に角働くことこそが大事で、休むことや楽しむことを悪いことのように思わされて働かされてる人のことも含んでいるのかもしれないと思う。コヘレトは、これまた空しく、不幸なことだと言う。
ふたりが良い
9節以下には語調がごろっと変わる。そして、ひとりよりもふたりが良いという話しになる。二人だと助け合えるし暖め合える、協力することもできる。12節の、「三つよりの糸は切れにくい」というのは、毛利元就の三本の矢は折れにくいという話しに似ているなあと思う。サンフレッチェだなあ。サンは日本語の「3」、フレッチェはイタリア語の「矢」だそうだ。でもふたりが良いという話しをしているときに三つよりの糸になったのかな。ひとり、ふたり、三つという風な語呂合わせじゃないかと言われていると書いている人がいた。聖書教育には12節はメソポタミア神話「ギルガメシュ叙事詩」にも見られる古代西アジアの格言だと書いてあった。
生きる意味
人間が生きる意味ってなんだろうかと思う。本当に苦しいことばかり多い人生を生きる意味はなんなんだろうかと思う。宇宙にとって人間がいてもいなくても関係ないじゃないかという気もする。或いは地球にとっては人間は癌みたいなものだと聞いたこともある。だとしたら人間はいなかった方が良かったんじゃないかという気もする。
人間が生きる意味って、頭の悪い僕にはよく分からない。そもそも意味なんてあるんだろうかと思う。人間を造った方にとっては意味があるのかもしれないけれど、造られた側にとってはよく分からんし、分からんのも仕方ないという気もする。そんな意味を問うても仕方ないかなという気もするし。
人は誰かの役に立てていると感じられることが幸せである、というようなことを聞く。その通りだと思う。そう思うけれど、自分も誰かも、ここにいる必要あるのか、みんないなくても差し障りはないんじゃないかなんて、ひねくれたことを考えることがある。そんな風に、自分が存在する意義というか必要性というかそんなのはないような、空っぽなような気がする。そこれそすべては空しいような気がする。
でも存在する意味も意義も必要性もよく分からないけれど、実際にはこうして生かされてしまっているわけで、そんな意味やら意義やらを捜すことよりも、どう生きることがいいのか、どう生きるのが幸せなのかというか喜びなのか、それを捜すことが大事なんじゃないかなと思う。
ふたりでいること
その答えみたいなのが所々に出てくる。3章12-13節には「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」「人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」なんてことが書いてある。また3章22節には「人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだ」とも書いてある。
そして今日の箇所にある「ひとりよりもふたりが良い」と言うのはもう一つの答えなんだろうと思う。
飲み食いすること、楽しんで生きること、誰かと助け合い、支え合い、分かち合って生きること、それが人生の喜びなのだとコヘレトは言っているようだ。
誰かよりも偉くなったとか、多く稼いだとかいうことよりも、今日感謝して食事できること、誰かと一緒に助け合い支え合って生きていること、自分が誰かのためになっていると思えること、それこそが人生の喜びなのだといわれているんだろうと思う。本当に嬉しいと感じるのはそういうことだなと思うし、そんな喜びを大事にしないといけないというか勿体ないことなんだろうなと思う。
こんなことできてすごいだろうと威張りたいとか、こんなもの持ってるんだぞと見せびらかして優越感に浸りたいという思いはぬぐえないものがあるけれど、そんな思いに縛られてしまうのではなく、本当の喜びというか本当の幸せというか、それを求めてそれを大事にしなさいといわれているように思う。
そのためにもふたりでいることを大事にしなさい、誰かと一緒に生きることを大事にしなさい、と言われているんだろうと思う。
ヨハネによる福音書13章34-35節でイエスはこんなことを言っている。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
ふたりでいることが大事であるということは、誰かひとりと助け合い、誰かひとりと暖めあう、その誰かひとりと一緒に生きることが大事、そこに生きる楽しみと喜びがある、そしてそんなところにこそ生きる意味があるということなんだろうと思う。
ふたりまたは三人が私の名によって集まるところに私もいる、だったかな、イエスはそんなことを言っていた。誰かと共に生きるところにイエスにいてくれているのだ。誰かと、そしてイエスと一緒に、本当の喜びを感じつつ生きていきたいと思う。