礼拝メッセージより
心配
先々週の金曜日に台所のエアコンが水漏れした。外に出るはずの水がうまく出てないようで、リホームなんかを請け負っている知人に見てもらったら、掃除したら直ることも多いと言うので自分でやってみた。そうしたらカビの真っ黒の水と凄い量の小さな塊が出てきて、だいぶ綺麗になった。それは良かったけれど排水自体は直らなかった。掃除の専門の業者に頼んだらいいんだろうか、いくらするんだろうかなんて思ったりもしつつ、排水のパイプが壁の中に入っていて出口だけバルコニーに出ている構造になっていて、そこが詰まってるとエアコン自体を掃除しても仕方ないのかなとかいろいろ考えていた。それで教会を建てた建築会社ならパイプを調べてくれるんじゃないかと思って連絡したら、エアコンのメーカーに連絡すると言われた。それでも直ればいいやと思っていたら後でメーカーから連絡があって、随分古いので部品がなくて故障しているとしても修理できない、見に行くことはできるけれど出張代がかかると言われて結局キャンセルしてしまった。
面倒になってきて、これから涼しくなるからもう放っておこうかと思ったりもしたけどやっぱり気になるし、インターネットでいろいろ見ているとエアコンの水を受けるドレンパンというのを外したら排水のパイプの掃除もできるかもとしれないということが分かった。それで最初見てもらった知人の真似をしてカバーを外して、ドレンパンというのが外れないかと見ていたら、外のパイプへ通じる2cm弱位の穴が見えて、その穴の入り口からちょっと奥に掛けて埃がたまっているのが見えた。そこでその埃を押し込んでやれば出るかと思って、たまたまあったテレビのアンテナにつなげる同軸ケーブルを使って押し込んだ。途中までしか押し込めなかったので、霧吹き用のスプレーからちょっとずづ水を流すと、少しずつ外に流れ出るようになった。そこで今度はペットボトルを使って流すと、小さな埃の塊が外に落ちて、それからはどんどん排水するようになった。
結局エアコンの水漏れに振り回される一週間だった。どうにもならなければエアコン自体を取り替えればいいんだと思いつつ、それだとお金かかるよなあと思って、いろいろと心配ばかりの一週間だった。自分ひとりで心配したってどうにもならないし、心配してる間はなにも動かないんだから、誰かに相談するなり頼むなりすればいいのに、なかなか頼みもしないで心配ばっかりしていて、ほんとにバカだよなと思う一週間だった。
コレヘト
コヘレトは1章で、「なんという空しさ、すべては空しい、太陽の下、人は労苦するが すべての労苦はなんになろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。」(1:2-4)なんて言っている。
コヘレトとは「宗教的な集会で語る者」というような意味なのだそうだ。そこで口語訳では「伝道の書」というふうなっていた。コヘレトは著者のペンネームみたいなもののようだけれど、このコヘレトは人生とは何なのか、人間とは何なのか、生きる意味とは何なのか、なんてことを真剣に考えているようだ。そして生きる喜びとはどこにあるのかと捜し回っているような気がする。けれども太陽の下、つまり人間世界の中ではなかなか見つけられないでいて、それですべては空しいと語っているようだ。
時
今日の箇所では何事にも時があること、定められた時があること、が書かれている。生まれる時とか死ぬ時とか、具体的に28個も並んでいる。意味のわかりやすいものもあるし、なんのことだかわかりにくいものもある。
しかし、神はすべてを時宜にかなうように造った、と言っている。前の口語
訳では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」となっている。
また神は、永遠を思う心を人に与えられる、けれども、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない、とも語る。
うちの猫は腹が減ると人に近づいてきて物欲しそうにするけれど、それ以外は大概寝てばかりいる。猫には永遠を思う心はあるんだろうか。先のことを思い先のことを心配するようなことはあるんだろうか。この先食べていけるのかと心配するなんてことはあるんだろうか。あまりないような気がするし、ない方が幸せなんじゃないかとさえ思う。
時
コヘレトは何事にも定められた時があるという。神が定めた時があるんだから、変に心配しないで、その時の流れに任せて生きていくようにいうことかなとも思う。
人生とは塵から生まれ塵に帰るまでの出来事でもある。ただそれだけと思うと大した意味もなく空しいものでしかないような気もする。
しかし今この時は神に与えられた時でもある、神の定められた時である、神に生かされている時でもあるんだ、とコヘレトは言っているように思う。
最高の時であろうが、最悪の時であろうが、
それが、私たちに与えられた唯一の時である。
(アート・バックウォルド/アメリカのユーモア作家)
全くその通りだ。あの時ああしていたら、こうしておけば、とよく思う。けれど、人生には本当はたらればはない。戻ることはできない。
結局人生は一本道だ。前に道はなくて後ろにしか道はない。そして振り返るとそこにあるのは一本道だ。曲がりくねっているかもしれないが一本道だ。
私たちはその時々に与えられた「時」を淡々と生きていくしかない。
しかしそこでただ一人で生きていくのか、それとも神と共に生きていくのかということだ。その時を神が与えたというのは神と共に生きていくということだ。
巡り巡る時の中を
しかしコヘレトが言うように、私たちは神の計画のすべてを知ることはできない。特に苦しく大変な時を過ごすような時、この苦しみが終わるのはいつなのか、いつまで耐えなければならないのかと思う。いつまでなのかということが分れっていればそれまで耐えようという気にもなるけれど、それが分からないながら耐えていかないといけないというのは大変つらい。
神もいなく、なんの計画もない中での苦しみならば、私たちはどっちの方向を向けばいいのかも分からない。ただ右往左往するしかない。しかし全部はわからなくても、神の計画の中に生きていることが分かっているならば、いつかはわからなくても神がその時を備えてくれていることが分かっているならば、私たちは神の方を向いていけばいいということになる。神に向かって叫べばいいということになる。
神と共に生きるということは、神に向いて生きるということなんだろうと思う。もちろん分からないこともいっぱいあるけれど、これはどうしてなのか、それはいつなのか、いつまで待てばいいのか、と神に向かって叫んでいく、それが神と共に生きるということなんだろうと思う。
この3章で語られる時はみんな対になっている。
生まれる時と死ぬ時、植える時と植えたものを抜く時という風に全部対になっている。ということを今回初めて知った。
これは時が巡り巡っていくということを言っているんじゃなかという気がしている。
人生には苦しみの時も悩みの時もある。しかし決してそれがずっと続くという訳ではない。泣く時があるし笑う時もある、嘆く時があれば踊る時もある、そんな風に時はどんどん巡っていくんだ、神がその時を与えてくれる、だからその時を希望を持っていこう、コヘレトはそう語っているような気がしている。
エアコンが直って嬉しい気持ちになっている。いつも不思議だなあと思うけれど、エアコンが水漏れしなかったらこんな気持ちにはなってない。
人生には山があったり谷があったりで、谷の時はしんどく辛いけれど、それがあるから山に来たときの喜びがあるんだろうなと思う。何事もない平坦な人生を望む気持ちは強いけれど、実はそれだと喜びもなくなってしまうのかもしれないなあと思ったりもする。
だからいろんな時があるけれど、神が与えられた今この時をしっかりと生きていきたいと思う。今日出会ったこと、出会わせてくれた、この時を与えてくれたことを感謝しつつ生きていきたいと思う。巡り巡る時の中で、その時々をしっかりと生きる、しっかり悲しみ、しっかり喜ぶ、それが大事なことだと言われているような気がしている。