礼拝メッセージより
探し続ける
風の谷のナウシカという映画がある。腐海という汚染された地域の毒に怯えつつ、多くの国が戦いを繰り返しているというような設定だったと思う。腐海に近づくときにはマスクをしないといけないという状況で、それは何だか今の状況に似ている。その映画の中に辺境一の戦士と言われるユパという人が登場する。ユパは腐海の謎を知ろうとしていたようで、その人のことを「ユパは探し続けるよう定められた男だ」と言う台詞がある。
コヘレト
「コヘレト」は、集まる、集会を開くという意味の動詞や、集会とか会衆を意味する名詞と同じ語根から派生した語、だそうだ。と言われてもよく分からないが、旧約聖書のギリシャ語訳ではエクレーシアステースとなっていて、これが集会で語る者を意味し得ることから説教者、伝道者という解釈が生じたそうだ。それで口語訳では伝道の書という名前になっていたみたいだ。コヘレトはペンネームであろうと書いてる注解書もあった。
1節でコヘレトはダビデの子である王、と書いてあることから伝統的にソロモン王だと言われていたそうだけれど、実際にはもっと後の時代、紀元前3世紀から2世紀の人と考えられているそうだ。
空しい
コヘレトも探し続けるよう定められていたような気がする。人は何者か、生きる意味は何か、そんなことを探し続けた人のような気がする。
9節に太陽の下という言葉がある。これは人間世界というか人間の力の及ぶ所ということかなと思う。そこでコヘレトは答えを探し求めたんだろうと思う。その結果が、なんという空しさ、すべては空しいということだったんだと思う。
日は昇り日は暮れ、風がいつまでも吹き続ける、川は海に流れ続ける、けれど流れ込む海の深さは変わらない、何もかもただただ繰り返されるだけだ、と言っているようだ。
知恵も知識も狂気で愚か、なんてのはわかるようなわからないような言葉だけれど、謎を知ろうとして知恵を尽くして調べても納得する答えは見つけられなかったということかなと思う。
風を追うようなこと、という言葉が何度か出てくる。風を追って捕まえようとするけれど、捕まえたらそれはもう風ではなくなっている、というようなことかなと思う。答えが見つけられそうなのに見つけられない、見つけたと思ったけれど違ったということなのかなと思う。ユパのように探し続けるよう定められてしまっているような気持ちだったのかなと思う。
幸せ
人間が生きる意味は何なのか、何のために生きているのか、どう生きることが正しいのかなんて考えると本当に分からないなあと思う。人の役に立つことが一番の幸せで、そのために生きているというようなことをよく言われる。確かにその通りだと思う。人の役に立てたと思える時はすごく嬉しい。自分でもおぼろだし上手くも言えないけれど、お互い誰かのために生きるとしても、じゃあ誰かも自分も生きている必要はあるんだろうかなんてことも思う。
答え
本当に考えても考えても、というほど実際にはよく考えてはないけれど、やっぱりよく分からないなあと思う。でも答えというか真理というか真実というか、それはコヘレトのように人間を真剣に真っ正直にしっかりと見つめるところに見えてくるような気がしている。
たとえそこには何も見つけられなくても、空っぽだとしても、人間のありのままの姿をしっかりと見つめることが大事なんだろうと思う。
牧師だからかな、分かったような結論を言いたくなる。言いたくなるというか言わないといけないような強迫観念が少しある。でも神は守ってくれます、なんていう風に最後をうまくまとめるというかそんな感じ。
説教でも分かってないことに耐えられなくて、分かったような答えを持って来てしまいがちだなとは思う。
分からないことを分からないとしっかりと認識することも大事なんだろうなと思う。
空っぽの中に
聖書教育に『キリスト者は「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」していないといけない、あるいは、神様や信仰について疑問を持つことは不信仰、という決めつけが教会の中にないでしょうか。「コヘレトの言葉」はそのような信仰理解に一石を投じてきます。「空しく思えること、無力に感じること、失望すること」、それもまた大切な信仰の体験なのだ、そう語りかけていると言えないでしょうか。』と書いてあった。
空しく思えることや無力に感じることや失望することを信仰体験だと言うというのはすごいなと思う。普通それって不信仰体験だと言われそうな気がする。でもそんな不信仰と思える空っぽな状況から見えてくるもの、空っぽな自分に響いてくる声、それこそが本物かなとも思う。
「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝」することが正解かもしれないけれど、自分にそれが見えてないと、自分にそのことが聞こえていないと、それは自分にとっての正解にはならないような気もする。
自分は空っぽであるかもしれない、けれどその空っぽの中に神が注ぎ込んでくれる、響かせてくれるのではないかと期待している。空っぽだからこそいっぱい注ぎ込んでもらえる、空っぽだからこそよく響くに違いないと思う。
やっぱり探し続けることが大事なんだろうなと思う。
昔ある牧師の就任式で、先輩牧師が求道者であり続けて欲しいと語っていたて、それを聞いてちょっと安心したことがあった。何年経っても分からないことだらけで、これで大丈夫かと思っていたけれど、探し続けること、求め続けることが大事なんだろうと思う。
空っぽの自分に何を入れてもらえるか、空っぽの自分にどんな声が響くのか、期待しながら探し続けていこうかなと思う。