礼拝メッセージより
ガガーリン
昔、初の宇宙飛行士になったガガーリンの話しをしているテレビ番組を見たことがある。人類初の宇宙飛行士がどうやって選ばれたかとか、実はガガーリンは遺書を書いていた、なんていう話しがあった。
その話しの中で、宇宙に行くための訓練の一つに、一人きりで時間を過ごすというのがあった。外からの音が一切聞こえない小さなコンテナのような部屋に入って一人きりの時間を過ごすという訓練があった。そしてその訓練はいつ終わるかということを飛行士に知らせないということだった。いつ終わるともしれないひとりぼっちの時間を何日も過ごす、そこでひとりぼっちをいかに耐えられるかという適性を見るという訓練だった。
終わりが分かっていれば多少なりとも我慢もできるかもしれないけれど、何時終わるとも知れずひとりだけの時間を過ごすというのはどれほど大変だろうか、と想像するだけで恐いなと思ったことを覚えている。
モーセ
イスラエルの人々がエジプトを脱出してシナイ山まで来た時、神は十戒やさまざまな律法を告げた。そして出エジプト記24章によると、イスラエルの人々と契約を結んで、人々は「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と約束したと書かれている。その後モーセは神の教えと戒めを記した石の板を受け取るために山へ登って行った。モーセは40日間山にいて、主から幕屋の作り方や、献げ物をどういう風にするかなどといった指示を受ける。そして掟を書いた2枚の石の板を授かることとなった。
ここに来るまで、モーセが人々を導いてきた。何か問題があればモーセに訴え、それをモーセが神に取り次いでいた。しかしモーセがいない間は、何か訴えがあればアロンとフルに申し出るようにと言われていた。
モーセがなかなか帰ってこないので、人々はアロンに自分達に先立つ神を造ってくれと要求する。そこでアロンはみんなの要求に応じて、みんなが身に着けている金の耳輪を集めて溶かして、和解雄牛の鋳像を造った。すると民は、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。そして祭壇を造って献げ物をささげて飲み食いして戯れた。
神はこれを見て怒ってしまって、イスラエルの民を滅ぼし尽くすと言う。これを聞いたモーセが神をなだめたので、神は民に下すと言っていた災いを思い直した。
その後宿営に戻ってきたモーセは、若い雄牛の像と踊りを見て怒り、神からもらった掟を書いた石の板をわり、雄牛の像を火で焼いて粉々に砕いて水の上にまき散らして、イスラエルの人々に飲ませた、なんていう話しだ。
疑心暗鬼
イスラエルの人たちはどうして子牛の像を造ったのだろうか。モーセの帰りを待てなかったということなんだろうけれど、モーセが帰らないからといってどうして金の子牛を作ったのだろうか。
実はイスラエルの民はもともとモーセをそれほど信頼もしてなかったから、すぐに子牛の像を造ったのかもしれないというような気がする。というか人々はよく分からなかったんじゃないかという気がする。モーセは主が自分達を助け出したと言っているけれど、それを否定する気はないけれど、何の疑いもなく信じているかというとそうではなかったんじゃないかと思う。アロンだって完全にモーセを信用していたかどうかは疑わしい気がする。
民には神は見えないし、神の声も聞こえない。いつもモーセを通して神の言葉を聞いているだけだった。モーセにとっては神は直接声を聞くという近い位置にいる。しかし民にとってはモーセを通して聞くという間接的な関係であっあった。だから主こそが本物の神、何がなんでもこの神を信じる、何が何でもモーセの帰りを待つ、という思いにはなれなかったのだろうと思う。
モーセは先祖の神、ヤーウェの神が自分達をエジプトから救い出してくれたと言うけれど、きっとそうなんだろうと思いつつ、約束の地へはなかなか付きそうもないし、大変なことも多いし、モーセの言う通りにしていて本当に大丈夫なんだろうかという疑問もあったんじゃないかと思う。モーセの言うことが本当だったとしても、モーセは山に行ったまま帰ってこない、このままモーセが帰ってこなければ主の声を聞く手立てもなくなり、主との繋がりも持てなくなってしまう、そうしたら自分達はどうしたらいいんだ、という気持ちになったとしても不思議ではないと思う。
だから自分達の神を造ろう、金の子牛を造って神にしよう、これからは子牛の神に守ってもらおう、これからはモーセはいなくても大丈夫だ、そこで「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」ということになったのかなと思う。
神はこんな民に怒りを発して民に災いを下そうとする。しかしモーセがそれをなだめて災いを思い直したという。そこでどうにかイスラエル人が滅ぼされることはなくなった。
しかし神が怒って滅ぼし尽くすと言ったのも、それを思い返したのも山の上の話しである。民はそんなことがあったことも知らずに子牛の像の前で踊って戯れていたわけだ。
その後モーセが帰ってきて、子牛の像を砕いて水の上にまき散らして自分たちに飲ませられた、そのあとモーセがレビの子らによって三千人が殺されることになったなんてことも書かれている。イスラエルの民はそこで初めて自分たちがとんでもない間違いを犯したことを知ったのだろう。
信じたい
民にとってはやはり神は遠い存在である。だから神を信じるということは大変なことだと思う。モーセの言葉を信じるしかない。モーセの言葉を神の言葉だと信じるしかない。モーセを通して神とつながっていたわけで、そのモーセがいなくなると神との繋がりもなくなってしまうと思ったとしても仕方ないように思う。
民はモーセの帰りを待てなかった。それは待っている間が辛い状況だったからだろう。宇宙飛行士の訓練のように、今の状況がいつまで続くのかと不安な状況だからこそ待ちきれなくなるんだと思う。
イスラエルの民はモーセがいないという状況が辛かったんだと思う。モーセがいないと神との繋がりがなくなるわけで、信じるもの、すがるものがなくなるんじゃないかと心配だったんじゃないかと思う。信じる対象が欲しい、それがないと不安で仕方なかったんじゃないかと思う。そして近隣の民がそうしているように自分達も神を造って、金の子牛を造って信じようとしたんではないかと思う。信じる相手を持つという安心感を手に入れたかったんじゃないかと思う。
人間には信じる対象が必要なのだと思う。それは人間が生まれ持った性でもあるようい思う。でも今日の聖書が伝えているのは、ただ信じる気持ちを自分が持っていればいいということだけではなく、何を信じるか、誰を信じるか、それが問題だということだ。
信じる気持ち、信じる思いは大事だと思うけれど、それよりも相手がどうなのか、信じるべき相手なのかどうかはとても大事なことだと思う。
イスラエルの民は信じたいという思いを持ち続けていた、信じる相手がいないことに耐えられなかったのかもしれないと思う。そういう点では私たちよりよほど信仰的なような気がする。しかし彼らは自分達が信じられればということで自分達で神を造ってしまった。動かない、命のないものを神としようとした、そこに間違いがあった。
生きた関係
しかし主は民に語りかける。民を愛し憐れむ、そんな神だ。民を滅ぼし尽くすと怒りを発するなんてことも書かれているけれど、モーセの訴えを聞いてそれを撤回するという神でもある。
しかし私たちもイスラエルの民のように直接神の声を聞くことができなくてそれが悩ましいところではある。しかし私たちの神は直接声は聞こえなくても、私たちを見つめ語りかけてくれる、そんな神だ。ただ私たちが信じるという思いを一方的にぶつける相手ではない。私たちの信仰心だけでつながっているような関係ではない。むしろ神からの導きや呼び掛けがあり、それに私たちが応える、神と私たちはそういう関係で繋がっている。
イスラエルの民はモーセを通して神の声を聞いた。では私たちはどうやって神の声を聞くのか。
新約聖書ヨハネによる福音書14章にこんな話しがある。
「14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
私たちはイエスを通して神の言葉を聞いている。
私たちの神は、ただ私たちの願いを聞いてもらう相手、あれをしてくれこれをしてくれと私たちの要求をぶつける相手というだけではなく、むしろそれよりも私たちを愛し、呼び掛け、招いてくれる、そんな神だ。そして私たちの声を聞いてくれる、私たちの祈りを聞いてくれる、そんな神だ。遠い高い所にいるのではなく、いつも私たちと一緒にいてくれている、寄り添ってくれているそんな神だ。私たちの神は私たちとそんな生きた関係を持ってくれる神だ。
イエスはそんな神の姿を、神の思いを、私たちに見せてくれ伝えてくれた。そんな神だからこそ信じていきたいと思う。そんな神の呼び掛けに、神の愛に応えて生きたいと思う。