礼拝メッセージより
ねばならない
クリスチャンになると日曜日には礼拝に行かなければいけないし、献金もしなければいけないし、聖書も読まなければいけないし、お祈りもしないといけない、というような話を聞くことがある。なのになかなかそれができない自分は落ちこぼれのクリスチャンだ、というようなことも聞く。そうなのだろうか。
戒め
確かに聖書には戒めが色々と出てくる。十戒なんてのはその総元締めみたいなものだろう。しかし色々と出てくる戒めは人を縛り付けるためにあるわけではないと思うのだ。十戒とは言われて小見出しにもそう書いてあるし、そして戒めのような言葉があるけれども、本文には戒めという言葉はない。1節にも、神はこれらすべての言葉を告げられた、とあって、戒めを告げられたとは書かれていない。
また「してはならない」と訳されている言葉も、「するはずがない」というふうにも訳すことが出来るような言葉だそうだ。そうするとこの言葉は、これを破る奴は赦さない、俺様の言うとおりにするんだ、というような神からの掟というよりも、人が生きるための指針、大切なことはこれこれなんだよ、という道しるべのようなものなんだろうと思う。
偶像崇拝
この言葉の中には、わたし以外のものを神とするな、また神の像も作るな、拝むなという、いわゆる偶像崇拝をしてはいけないということが出てくる。神でないものに従うこと。直接的には何か像を作ってそれを拝むことが偶像崇拝である。神は、人間が自由に作れるような、人間が持ち運べるようなものでもないし、また堅い動かない像でもない。神をそんな小さな、動きもない、冷たいもののように考えてしまうことのないようにということからも像を作ってはいけないと言われているのだろうと思う。
そんな風に、像を作ってそれを拝むことが偶像崇拝だ。それだけじゃなく神の声よりも神でないものの声のほうに従うこともまた偶像崇拝だろう。
例えば、今の社会は医者や弁護士や実業家など、お金をいっぱい稼ぐ人は価値があって、逆にホームレスの人や定職に就いていない人、障害を持っている人は価値がないというような見方をしていると思う。自分でもそんな思いがあって、稼ぎの悪い自分は大した価値がないような気持ちがある。
しかしイエスは娼婦や徴税人たちといつもいっしょにいた。障害を持っていることで社会からのけ者にされている人たち、また子ども達を大事にした。社会にとっては何の役にも立たないような、それどころか、邪魔でうるさくてわずらわしいだけのような者のことを、神の国はこのような人たちのものだと言っているのだ。
イエスは社会のモノサシとは全く違うことを言っている。そんな神の声を第一に聞いているかどうかなのだろう。それよりも社会的な常識やものさしの方を優先しているとしたら、それも偶像崇拝と言えるだろうと思う。
そうすると、像を拝んではいないから私は偶像崇拝とは関係がない、と簡単には言えないだろう。そんなことよりも、神の言葉を第一にしているかどうか、それが問題なんだと思う。
安息日
また安息日を聖別するという言葉がある。その日には労働をしてはいけないということになっていた。ユダヤ教の人たちは今でも厳格にこの戒めを守っているそうだ。ユダヤ教はエレベーターのボタンを押すのも労働になるということになっていて、安息日にはイスラエルのヘブライ大学のエレベーターは人の乗り降りには関係なく一階ごとに全部止まるようにして自動運転している、という話しがあって、テレビのクイズ番組の問題になっていたりもする。何だかお笑いの種になっているが、何が労働になるのか、どこまで許されるのかと厳格に問い詰めていくとそんなことになってしまうのだろう。
なにもしないで動かなければ戒めを破らないですむわけだが、しかし安息日とは本当は、これは労働になるのだろうか、戒めを破ってはいないだろうかとびくびくして過ごす日ではなく、普段していることを敢えてやめて、神の前にというか神と共に静まる日ということなのだと思う。
私たちはいつも何かに追われて、いつもいろんなことを考えて生きている。あれもこれもそれも、しなければいけないことがいっぱいあって、できてないこともいっぱいあって、そんなことで頭の中がいっぱいになっている。そしていつもそわそわいらいらしてしまっているのではないか。
聖別するというのは、特別にとっておく、分けておく、というような意味なのだそうだ。普段の生活とは違う別の日として、日常の仕事をひとまずやめて、脇に置いて静まる時、それが安息日なのだろう。日常の喧噪を脇に置いて、立ち止まる、そして神と共に静まる、それが安息日を聖別するということなのだと思う。
立ち止まって神の共に静まること、じっくりと神の声を聞くこと、それは恵みなのだと思うようになった。何もしないで静かに目をとじること、黙想すること、それはとても大切なことだと最近思うようになった。
何もしない時間は無駄な時間のような気持ちがあるけれども、実はとても大事な貴重な時、恵みの時なのかもしれないなと思う。
父母
それに続いて、あなたの父母を敬え、と言われている。そうすれば神が与えられる土地に長く生きることができる、と言うのだ。
でもどうして父母を敬えなのか、不思議な気持ちがしていた。どうして子どもを大切に育てなさいではないのだろうかと。
そう思っていたら、もともとの意味は、父母が高齢になっても虐げてはいけないという戒めだった、という説明があった。要するに、年老いて仕事が出来なくなっても、何の役にも立たないと思えるようになっても大事にしなさい、ということのようだ。そうするとこれは父母だけの話ではないのかもしれない。私たちは人を役に立つ人間と役に立たない人間、何かができる人間と出来ない人間、というような見方をしがちだけれども、そういう見方をすることが間違っている、ということなのかもしれない。
逆に言うと、私たちもそう言う見方をされているということなんだろうと思う。私たちも自分が何かができないと意味のない、価値のない人間なんだ、と思いがちだ。お金が稼げる人間が価値のある人間のような思いがある。あるいは他の誰もできない特別なことができる人間が価値のある人間のような思いがある。それに比べて私は何もできない、何も持っていない無価値な人間であるかのように思ってしまう。
でも神さまはそうは見ていないということだ。年老いた父母を敬えというのは、そこにいることを大切にしなさい、そこにいること自体に価値があるんだということなんだろうと思う。何ができるとかできないとかが問題ではなく、ただここにいることが大切であるという、そういう見方をしなさいということだろう。そしてそれはまさに神さまがそういう見方で私たちを見ているということなんだろと思う。
むさぼり
それに続いて殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欲するなと言われる。隣人の命も妻も取ってはならないというのだ。
どうして人を殺してはいけないのか、時々そんなことが話題になる。でもよく考えるとその理由を明確に答えるのは難しいと思う。
聖書では十戒ではただ殺してはならないと言う。きっとそれは、命は神が創られたから、命は神のものだから、だから人間がそれを勝手に奪ってはいけない、ということなのだろうと思う。
続いて姦淫するな、盗むな、偽りの証言をするな、欲するな、とある。姦淫するといことは、そうすることで他の人の結婚を破壊するということらしい。つまり、姦淫も盗みも偽りの証言も、相手の持ち物、相手の人間性、相手の人格を破壊することになり、そうすることはしてはいけない、相手を尊重し、相手の領分を犯すことをしてはならない、ということを言っているようだ。
泥沼
しかし私たちの心の中にはいろいろな欲望が渦巻いている。あれも欲しい、これも欲しいと思う。そのくせ実際にそれを手にすると次第に喜びは減ってきて、今度は次の物が欲しくなってしまう。
持てない者のやっかみかもしれないけれど、物を持つことで、これで満足もう幸せということにはならないような気がする。案外何かを手に入れれば入れるほど、欲望は余計に広がっていって、満たされない思いも広がっていくのかもしれないと思う。
やっぱり人の喜びは、物を持つことで得られるのではなく、自分と誰かの関係を持つことで得られるのではないかと思う。
人は神と良好な関係を持つことと同時に、隣人との良好な関係を持つこと、そこに喜びがある。物を持つことによる喜びとは比べ物にならない喜びがある。だからこそ神との関係、隣人との関係を大事にしなさい、十戒はそう告げているんだろうと思う。
道しるべ
十戒や律法といわれるものも、守っている者と守っていない者を区別する判断基準としてあるのではなく、人ががどういう方向へ進んでいくべきなのか、どんな思いで生きるべきなのか、そのことを教えてくれている、その方向を示してくれているものなのだろうと思う。
しかし長い年月が経つうちに、だんだんと中身よりも外側を、形を守ることが大事になってきたようだ。戒めなんてのはだいたいそういうふうになる宿命にあるのかもしれないが、それを守れるものと守れないものとを区別するものさしとなってきたようだ。守っている自分はいい人間、守れないあいつはだめな人間、あるいは守れない自分はだらしない人間、なんて思う。
しかしこの十戒も、誰かをいい人間かだめな人間かと判断するための道具ではないと思う。そうではなく人が神を見上げ、神の声を聞き、また隣人との関係を大事にして生きるように、それこそが大切なことだ、と教える神からの呼びかけ、招きじゃないかと思う。
招き
法律と律法とは何が違うのかなんていう話しをしたことがある。漢字の順番を変えただけで同じようなものかと思っていたけれど、やっぱり違うよなという気がしている。
法律とは境界線を表しているんだと思う。これはしてもいい、これはいけない、ここまではいいけど、ここからはだめというような境界線、それが法律なんだと思う。
でも律法は境界線ではなくて道しるべみたいなものなんじゃないかと思う。神に従う方向はこちらです、あなたたちの進むべき道はこちらです、と方向を示しているのが律法なんじゃないかと思う。だから、ここまでは合格、ここからは不合格というような境界線を定めるためのものではないと思う。そして間違った方向から正しい方向へ向きを変えるのが悔い改めということなんだろうと思う。
だからこの十戒は私たちが神の方へ向いていくように、幸せな充実した人生を歩むように、そしてそこから逸れることがないようにという神の招きの言葉なのではないかと思う。
あなたが大切だから、だから自分と共に生きて欲しい、そんな神の思いが詰まっているのではないかという気がしている。イエスはそんな神の思いを私たちに告げてくれているように思う。そんな神の思いをじっくりと聞き受け止めていきたいと思う。