礼拝メッセージより
エトロ
エジプトでヘブライ人の子として生まれたモーセは生まれて間もなく、エジプトの王ファラオの命令でナイル川に流された。しかしそこで王女の拾われ王家で育った。つまりヘブライ人として生まれたけれどエジプト人として育ったということだろう。モーセはヘブライ人を苦しめているエジプト人を殺したことがあった。どこかで自分が奴隷として苦しめられているヘブライ人であることを知り、ヘブライ人を助けヘブライ人として生きようとしたんじゃないのかなと思う。けれどもヘブライ人たちに受け入れてもらえなかったためにミディアンへ逃げていった。
そこで祭司をしていたエトロの娘ツィポラと結婚し二人の子どもも産まれ、エトロの羊を飼って暮らしていた。しかしそこでイスラエル人たちをエジプトから救い出すためにエジプトへ行けという神からの声を聞き、自分が逃げてきたエジプトへ戻りイスラエル人を率いて出エジプトを果たした。
18章の前半を見ると、イスラエルの民が出エジプトを果たしたことを聞いたモーセの舅エトロが、エトロからすると娘と孫になるが、モーセの妻であるツィポラと息子二人を連れてモーセに会いにやってきた。
エトロは出エジプトの出来事をモーセから聞いてとても喜び、「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」(18:10-11)と言ったと書かれている。そして献げ物を献げ、アロンや長老たちとも一緒に食事をした。
エトロはミディアンの祭司なので、ということはヘブライ人、イスラエル人からすると異邦人であって、その異邦人の神の祭司である。そのエトロが主を賛美し献げ物を献げたというのだ。すごいことだと思う。ある牧師が、今で言うとお坊さんや神主さんが教会の礼拝で説教するようなものだと書いてあったけれど、それはなかなかすごいことだなと思う。
昔ホテルの結婚式の司式をしていた時に、参列者の中に見るからにお寺のお坊さんの格好をした人がいたことがあった。新郎新婦とどういう関係があるのか分からないけれど、キリスト教式の結婚式と知った上で参列してるってすごいなと思った。逆の立場になった時に、静かに心穏やかに参列できるんだろうか、なんて思った。
忠告
そしてその翌日の出来事が今日の聖書になる。
モーセは朝から晩まで一人で民を裁いていたというのだ。15節に、神に問うためにくると書かれている。神の声を聞くことができるのはモーセ一人だけだったのだろうから、神に聞くためにはモーセのところに来るしかないわけだ。
しかしそれを見たエトロは、それではモーセも民も疲れ果ててしまう、あなたの代わりをできる者を選んで民の上に立たせなさい、小さい事件は彼らに任せて、大きな事件だけをモーセが担当するようにしなさい、と助言した。
モーセはその助言を聞き入れて千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を選び、小さな事件は彼らが民を裁くようになった、という話しだ。
任せる
モーセが一人で何もかもかかえていないといけないというのは確かに無理がある。隊長を選んで任せていくことでしっかりとした組織になっていくんだろうなと思う。モーセが一人でかかえていたので破綻しそうになっていたんだろうと思う。だからその前にエトロが適切な忠告をしたということなんだろう。
でも任せるというのもなかなか難しいと言う気もする。任せるには勇気がいる。自分でやったほうが早かったり安心だったりするとなかなか任せられない。任せるほどのことでもないしとか、任せることで変に重荷に思われても嫌だしとか、なんて思うとなかなか任せられない。
でも任せていかないといけないんだろうな、と今朝礼拝の間際に週報を印刷しながら思った。
鷹揚自若
また忠告を素直に聞いたというのも、いろんな説教者が言ってるけれど確かに偉いよなという気もする。案外モーセもくたびれていて丁度いい時に丁度いい忠告だったということかもしれないけれど。
隊長になった人達も偉いなと思う。神を畏れる有能な人で不正な利得を憎み信頼に価する、なんて人がそんなに大勢いたのかだろうかとも思うけれど、隊長になるようにと依頼されてそれを受けたからこそ成り立っていったわけだ。
そんなことできません、そんな大それた事を私なんかに、なんて言って断っていたらエトロの忠告も無意味になってしまっていた。
エテロの忠告を素直に聞いたモーセも偉かったし、それを引き受けて隊長になることを承認してそれに従っていった人たちも偉かったということなんだろうなと思う。
説教題の鷹揚自若の鷹揚とは鷹が空をゆったり飛んでいる様子で、自若とは慌てず悠然としている様子、とネットに書いてあった。
今の自分とは正反対の状態だなという気もするけれど、そんな気持ちでいたいなと思った。
忠告聞いても、何勝手なこと言ってるんだと反発したり、そんなことできるわけないと端から聞く耳持たなかったり、そんなことさえもできてないんですよと自分達の駄目さを指摘されたような気になって落ち込んだりなんてことが多いなと思う。
助言を聞く度量を持つこと、そして任せる度量を持つ者と、任せられる度量を持つ者、その両方がいてこそ、その組織はうまくいくということなんだろうなと思う。
熟慮
今日の聖書ではエトロの忠告をすぐ実行したように書かれているが、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を選んだという記事は申命記1章9節以下の所にも出てくる。それは主エジプトをしてから40年程経って、もうすぐ約束の地へと入っていこうかという時期の話しになる。
どっちが本当なのかよく分からないけれど、実はエトロの忠告をだいぶ後になってから実行したとしても、それはそれで面白い。面白いというか、実は言われて慌ててすぐにハイハイと実行したんじゃなくて、じっくり考えて必要な時に実行したとしたのかもしれないなと思う。それ位余裕を持って、じっくり考えていくことも大事なんじゃないかという気がしている。
神に支えられている、そのしっかりとした支えがあるからこそ、忠告もしっかりと聞けて、じっくりと考えるという余裕も持てるんだと思う。神を信じるということは、心の奥底を鷹揚自若に生きるということでもあるんじゃないかなと思う。
実際には柳が風に吹かれて揺れるように、あっちから何か言われたらあっちに揺れ、こっちから違うこと言われたらこっちに揺れ、そんな風に忠告にも助言にも、そして注意にも動揺していつも揺れている。しかしそれでも根っこがしっかり支えられていれば吹き飛ばされることはない。
神によってしっかりと支えられているからこそ、揺れながらではあるけれど、心の奥底で忠告や助言を素直に聞くことが出来、自分に必要な忠告かどうかをじっくりと見定めることも出来るんだろうと思う。