礼拝メッセージより
回り道
イスラエル人たちはやっとエジプトを脱出することができることになった。しかしそのイスラエル人を神は迂回させたと書いてある。ペリシテ街道には導かれなかったとあるが、パレスチナの地中海側にペリシテという地域があって、旧約聖書を見るとユダヤ民族はこの民族と度々いざござを起こしている。ペリシテ街道という呼び名は後の時代につけられた名前だそうだけれど、エジプトから地中海沿いにペリシテを通るその道を行けば、約束の地であるカナンまで300kmくらいの道のりだそうだ。一日10kmでゆっくり歩いたとしても一ヶ月程度で到着するくらいの距離である。でもその道を進むと言うことは強い民であるペリシテ人と戦う危険性があるということでもあった。そんな民と戦うことになると知ったらエジプトへ帰ろうとするかもしれないと神が思ったので、葦の海に通じる荒れ野に迂回させたと書いてある。しかしそのお陰で結果的には1ヶ月の道のりを40年も迂回したということになった。
ペリシテと戦わないようにしたのは良かったかもしれないけど、40年も荒野を彷徨うと知っていたらイスラエル人たちはエジプトから出てくることに賛成したんだろうか。
雲の柱、火の柱
40年彷徨うなんてことは勿論知らなかっただろうし、イスラエル人にとってエジプトからの脱出はエジプトでの長く苦しい奴隷生活からの解放であったのでただただうれしい出発であっただろうと思う。しかしそれと同時に、これからどうなるのかという未知なる世界への不安をかかえての出発でもあったことだろう。最初は嬉しい気持ちが大きかったと思うけれど、時間が経つにつれてその嬉しさもだんだんと減ってきて、その分将来に対する不安や心配が増えてきていたんじゃないかと思う。
神は昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって彼らを照らしたと書いてある。当時、紀元前13世紀位、ラメセル2世という人がエジプトのファラオであった時代ではないかという説もあるそうだけれど、その時代に地中海のサントリニ島という島の火山が大噴火しているそうだ。火山が噴火すると噴煙の中に雷が起こることがよくあるけれど、その噴煙を目印にイスラエル人は進んだのではないかと考えている人もいるそうだ。
あるいは柱みたいな雲となると竜巻の時に雲が柱のように地上に降りてくるけれど、竜巻の雲が近づいたら何もかも吹き飛ばされてしまって大変ことになりそうだ。
実際に雲の柱や火の柱がどんなものだったのかはっきりはしないけれど、それは神がそこにいるというしるしだったようだ。昼も夜もその柱が民の先頭を離れることはなかったと書かれているように、イスラエルの民は昼も夜も神に導かれて、神のあとをついていったというわけだ。
導き
エジプトを脱出するということは重労働からの解放であり、また約束の地へと向かうためであった。しかしその約束の地へ向かう途中の道は途方もない大変な道のり、大変な苦しい旅だった。荒れ野の40年、なんて言われ方もするが、荒れ野を通り苦しみを経験する長い旅路だった。
しかも民には先のことは見えていない。目的地だけは分かっているだろうけれど初っ端から遠回りをしていて、いつ到着するのか分かっていない。予定が決まっていて、その予定通りに進んでいればさほど心配もないだろうけれど、予定そのものも分からず、順調に進んでいるのか、それとも停滞しているのか、それさえも分からいまま彷徨っているというのは精神的にはとても苦しい状態だったんじゃないかと思う。
すぐ後の14章ではエジプト軍が追って来ると知った民が、エジプトで奴隷として働いていた方がまだよかったということを言った、ということがこの後に書かれている。
今日の箇所では、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと神が思ったので迂回させたと書いてるけれど、その後後悔しているじゃん、この言葉はなんだったの?と思う。
その後もどうやらすぐには目的地に着けそうもない、希望の未来がすぐにはやってきそうもない、そんなことが少しずつ分かってくるとイスラエル人たちは、こんな大変なことになるなら来なければよかった、そんな思いに度々おそわれたんじゃないかなと想像する。
しかしそんな風に後悔しつぶやいたり文句を言ったりしつつ、そこで神の導きを民は経験していったのだと思う。こんなことだろうと思ったから来たくなかったのだ、こんなことなら昔の方がよかったと言いつつ、でもそんな苦しい情況の中でも神に導かれているということを少しずつ経験していったのだろうと思う。
神の導きとはそういうものだった。民の前に姿を現して、彼らを苦しみのない、何の心配のない、そんな別世界へと瞬間的に移すなんてことはしていない。何もかも神がお膳立てして、民は何もしなくても良かったというわけではない。民は約束の地へ向けて自分達の力で歩いていっている。
神の導きとは、この世の苦しさや大変さのある中で、そこを耐える力、生き抜く力を与える、励まし支えていく、そして一歩一歩を踏み出す力を与える、そんな導きだったようだ。
なにもかも自分の願いどおりにしてくれること、苦しみや大変さをなくしてくれること、私たちはそんなことを神に期待するけれど、なかなかそうはならないようだ。そうではなく、どんな時にも共にいる、見えない所で、見えない形で私たちに寄り添う、そんなことを通して苦難の多いこの人生を生き抜く力を与える、それこそが神の導きのようだ。
ぼろぼろになり、打ちのめされ、うずくまり、自分を責め、運命を呪い、神に悪態をつく、そんな時にも決っして見捨てない、それが神の導きなのではないかと思う。
雲の柱、火の柱が民の先頭を離れることはなかった、と書かれている。神は直接民の前に姿を現すことはない、けれども見えない所で、見えない方法で神はいつも民とともにいたということを伝えているのだと思う。
後悔
人生はどっちを選ぶか、何を選ぶかという選択の連続だと思う。僕はやっぱりあっちにしとけば良かったと後悔することがいっぱいある。そして後悔するということは間違った選択をしたということだと思っていて、間違いたくない、後悔したくないということでなかなか決断できない。ファミレスの注文でもなかなか決められないことがある。
ある時、人間は選択をした瞬間から後悔が生まれる、というような話しを聞いた。見たのかな。どちらかを選んだ瞬間からこっちで別の方が良かったんじゃないかという気持ちが生まれると言っていた。それを聞いてものすごく納得して安心した。後悔することが悪いことのように思っていて、後悔しない選択をしようとしていた、だから結局なかなか選択できないでいた。でも選択した瞬間から後悔が生まれると聞いて後悔してもいいんだ、後悔するものなんだと思えてとても安心した。
エジプトを出て約束の地へと向かうイスラエルの民の歩みは、私たちの人生の縮図のような気がしている。うまくいけば有頂天になったかと思えば、問題がおこると後悔ばっかり、文句ばっかりの民だった。それは全く私たちの人生そのもののようだ。
しかし神がそのイスラエルの民にずっと寄り添ったように、この神は後悔ばかりの私たちにもずっと寄り添ってくれている、この出エジプトはそのことを私たちに伝えてくれているように思う。
神の姿は見えない、けれど何があっても見捨てない、どこまでもどんな時でも寄り添ってくれる、共にいてくれる。そんな徹底的な自分の味方がいることを知ること、それこそが私たちの人生を支える力と、一歩を踏み出す力となるのだと思う。