礼拝メッセージより
災い
エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエル人を救い出すために神から命じられたモーセは、イスラエル人をエジプトから脱出させるためにエジプトの王ファラオのもとへ行き、イスラエル人をエジプトから去らせるようにと交渉する。しかし神から言われていたとおりその交渉は成功しない。ファラオは心を頑なにして、余計に辛い仕事をさせる。
そこで神はいろんな災いをエジプトに下す。川の水を全部血に変えるとか、蛙を大発生させる、ぶよやあぶの大発生、それから疫病を起こしたり、腫れ物ができるようにしたり、雹をふらしたり、いなごを大発生させたり、国中を三日間暗闇にしたり。
ファラオは大変な事態になるとモーセの言うことを聞く、といいながら、ちょっと事態がよくなり一息つくと、やっぱり駄目だ、というようになる。
ファラオがなかなか言うことを聞かないのは神さまがファラオをかたくなにするからだと言われている。モーセにとってはつらいことだったのではないかと思う。モーセは神さまが言われるようにただそれに従っていただけ、かもしれないけれども、それでもファラオに会いに行くのはモーセ自身であり、そしてイスラエル人をエジプトから救い出すためにファラオと交渉しているのに、なかなかうまくいかないわけだ。
自分のやっていることの成果がなかなか目に見える形で現れない時ってのは不安になったり自信をなくしたりする。神さまはファラオの心を頑なにする、と言っていたからその通りになっているのだろうけれども、本当にエジプトを脱出できるのだろうか、というような思いにもなったとしても不思議じゃない気がする。
神さまはなんでそんな大変な思いをモーセにさせたのだろうか。モーセを鍛えたのだろうか。あるいはその後、約束の地へと向かう苦難の旅を耐え抜くための準備だったのだろうか、なんて思ったり。しかしモーセも投げ出さずによく耐えたよなと思う。
モーセは最初に神から、お前がイスラエル人をひっぱってエジプトを脱出させると言われたときに、自分にはできない、そんな人間じゃないと散々ごねたけれども、案外それが良かったんじゃないだろうか。そんなことできない、こんなことになったらどうしよう、やっぱり他の人にしてくれ、とその時点で目一杯弱音を吐いたから、この時なかなか思うように話しが進まなかった時に耐えることが出来たのかもしれない、なんて思う。
過ぎ越し
そんなこともありながら、最後にエジプト中で初めて産まれた子、人間も家畜も何もかも、初めて産まれた子が死んでしまうという災いを起こす、と神は言う。そしてやっとイスラエル人はエジプトを脱出することができる、というのだ。
しかし柱と鴨居に小羊の血、あるいは羊や山羊でもいいと書かれているが、その血をぬっている所だけは、その災いに遭うことがない、そこだけは災いが通りすぎでいく、過ぎ越していくと神は約束される。
こういうところを見ると、神さまが町の中の通りを歩いているようなイメージが湧いてくる。通りを歩いて血が塗られているかどうかを一軒一軒見てまわって、血が塗られていない家に入り込んで初子を殺していく、こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけれど殺人鬼のような感じもする。
兎に角血が塗られているイスラエルの家はこの災いが過ぎ越していった。しかし血が塗られていないエジプトの家では初子がみんな死んでしまった。そしてファラオは、お前達はエジプトから出て行ってくれ、と言ってついてエジプトを出ることができるようになったというわけだ。
記念
そしてこのことを記念として過ぎ越しの祭りをおこなうように、と神は言われる。毎年そのことを思い出すために祭りを行うようにという。これこれこういうことがあって私たちは助けられた、救われたのだということを次の代の者へと語り伝えなさい、というのだ。さんざん苦労したけれども、神はそんな自分たちを見捨ててしまっていたわけではない、こういうふうにして救われたのだ、そのことを後生に語り伝えなさい、そして記念の祭りを行いなさい、と言われる。
12章の始めから過越について書かれているけれど、ここで不思議に思うことがある。ここまではずっと出エジプトに至るまでの出来事が書かれているのに、12章の前半では出来事だけではなく、出来事もあるけれど、それ以上に過越祭について、過越祭をどういう風に守るのかということが中心に書かれているように思う。
今から最後の災いが起きようとしていて、その災いをどうやって過ぎ越したのかということが書かれているのかと思いきや、突然過越祭をこうやって守りなさい、儀式の意味を問われたときにこう答えなさいなんていうことが書かれている。そんなことはエジプトを出てから言えばいいことじゃないかという気がして、ここでこんなことを言ったということが以前から不思議な気がしている。
出エジプト記って出エジプトの記録が書かれている書物かと思っていたけれど、ただイスラエルの歴史だけじゃなくて、後々守るべき儀式の仕方とか、律法とか、幕屋の作り方なんてものも出てくる。後世に伝えるべきことがらをごっちゃに詰め込んでる書物みたいだ。それで出エジプト記をまとめる時に過越祭のやり方をここに入れたのかなという気がしている。
小羊
そういうことで、ここに書かれているようにイスラエル人は過ぎ越し祭を通して、かつて自分たちを神が救ってくれたことを思い出してきた。自分達は神に助け出された民だ、苦しいことも経験したけれども神は自分たちを見捨てはしなかったということを思い出してきた。
かつては小羊の血によってイスラエル人を救った神は、今度はイエスの血によってあらゆる民を救われたと新約聖書は語る。イエスの十字架の死を経験した弟子たちはずっとその意味を問い続けてきたのだろうと思う。そしてその意味をこの過ぎ越しの中に見つけたということなんだろうと思う。
私たちも主の晩餐を通して、そして礼拝を通して、イエスの十字架を思い起こす。イエスが命をかけて私たちを愛してくれたこと、命をかけて愛してくれたこと、命をかけて神の愛を私たちに示してくれたこと、そして今も私たちを大事に大切に思ってくれているということ、そのことを私たちはこの礼拝を通して、主の晩餐を通して、いつも思い起こしていきたいと思う。
あなたが大切だ、あなたは独りぼっちじゃない、何があっても大丈夫、私はいつもあなたと一緒にいる、そんなイエスの声をいつもいつも繰り返し聞いていきたいと思う。