礼拝メッセージより
反論
神がエジプトで苦労しているユダヤ人たちを救い出すためにモーセをファラオのもとに遣わすことにした。そのことを最初にモーセに告げたのは、モーセがユダヤ人をいじめていたエジプト人を殺したことから、エジプトの王ファラオから逃げてミディアンで生活している時だった。ミディアンで結婚し子どもも生まれて、すっかり落ち着いている時だったようだ。
モーセは神から、あなたがユダヤ人たちをエジプトから導き出す、と言われても、何も言わずに従ったわけではなかった。「わたしは一体何者でしょう。」、「神の名前を聞かれたら何と答えましょうか」。やっぱりそんな事は出来ない、口べただし、と反論している。
出来ない、出来ない、と言っているモーセに対して神は一つ一つ答えている。それでもモーセはなかなか承諾しない。これに対して神はいろいろなしるしを見せて、モーセを勇気づけようとする。モーセが手に持っていた杖を蛇に変えて、その尾を取るとまた杖にもどるということを見せている。次に手を重い皮膚病にするしるしを見ても、まだモーセの不安は解消されない。神に従う決心ができない。行動を起こす決断が出来ない。あなたが話すべきことは私が教えるから大丈夫なんだ、と神さまは言うが、なおもモーセは「だれかほかの人を見つけてお遣わしください」(4:13)と答えている。
それに対して神はとうとう怒ったなんて書かれている。怒っているけれどもそのことでモーセを見放すわけでもなく、罰を与えるわけでもない。怒ったけれどもアロンがあなたの代わりに話すから心配するな、とたしなめている。
もともとモーセは、ユダヤ人をいじめるエジプト人を殺したためにファラオに命を狙われてエジプトから逃げてきていた。その時の王とは別の王になってはいたようだけれども、神の命令はそんないやな思い出のあるところへわざわざ帰っていけということでもある。そしてエジプトの王に、イスラエルの民をエジプトから去らせるように説得しないといけないというわけだ。
エジプトには絶対帰りたくない、ましてファラトと対峙して民を脱出させるなんて、そんな面倒なことはしたくないというのが本音だろう。そこでいろいろと出来ない理由を挙げているんだろうと思う。
出発
神との問答の末にそれでもモーセは神の命令通りにエジプトへ向かう。どれだけ反論しても神が命令を撤回しないので仕方なく出掛けたんじゃないかなと思う。
モーセはアロンと出会い、まずはイスラエルの長老たちのところへ行き神の言葉を告げ、しるしを行った。そうすると、イスラエルの民はモーセの言葉を信じて神を礼拝した(4:31)、と書かれている。ここで案外うまくいくじゃないかと思ったかもしれないなという気がする。
そして遂にエジプトの王ファラオのもとへ出かけていったことが5章に書かれている。ファラオに向かって、「イスラエルの神、主が、わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい、と言われました。」(5:1)と告げる。
これを聞いたファラオは、主とは何ものか、どうしてそんなものの言うことを聞かないといけないのか、主など知らない、イスラエルの民を去らせはしない、と答えた。モーセとアロンは、主に犠牲をささげさせてください、そうしないと神は疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう、と食い下がる。けれどもファラオは、それは仕事をさぼるための口実だと言って拒否する。当時イスラエルの人たちはわらを与えられてレンガを作る仕事をさせられていたらしいが、ファラオは、あいつらは怠け者だから犠牲をささげさせろなんて言うのだ、これからはわらも自分たちで用意させろ、それでも作るレンガの量も減らすな、という命令を出してしまった。
イスラエルの人たちは自分達を解放してくれると期待していたのに、あんたたちが余計なことを言い出すから仕事が増えてしまったじゃないか、お前らなにやってんだ、どうしてくれるんだ、とモーセとアロンに文句を言ったという。そりゃそーだ。文句言うよな。
苦悩
モーセは、神の命令だからと仕方なく従ってきたのに、その結果は民を救い出すどころか余計に苦しめてしまっただけじゃないか、この俺が神の言葉をファラオに伝えるなんて、イスラエルの民をエジプトから約束の地へ導き出すなんて、そんなのはやっぱり間違いなんだ、やめときゃ良かった、神の命令通りにやったのに、何でみんなから文句を言われないといけないのか、こんなことやってられない、と考えたのだろう。神の対してもそんなことを訴えている。
神がファラオの心をかたくなにするのでがなかなか言うことを聞かない、ということは最初から神から聞かされてきたことだった。だから今回ファラオが、イスラエルの人たちに犠牲をささげさせて欲しいという願いを拒否したことは予定通りだったのかもしれない。神にとっては想定内の出来事ということだったのかもしれない。
しかしそのためにイスラエルの民を苦しめることになり、彼らから反発を食らうことになったことは、モーセにとってはとても大きなショックだったに違いない。自分がしたことによって少しずつでも成果が出れば自信もつくしやる気も出てくる。ところが自分がしたことで逆に状況が悪くなってしまい、民から文句を言われることになってしまったのだ。神にとっては計画通りかもしれないけれど、それを頭では理解していたとしても、本当に大丈夫なんだろうか、次はどんなことになるんだろうかと心配になるだろうし、何よりも自信もやる気もなくなってしまっていたんじゃないかと思う。
不調
そんな時に神がモーセに語った、それが今日の聖書の箇所だ。
「わたしは主である、わたしが語ることをエジプトの王ファラオに語りなさい、わたしは奴隷となっているイスラエルの民を救い出す」というような言葉が出エジプト記には何度か出てくる。
今日の6章28節以下にも改めて、わたしがあなたに語ることをファラオに語りなさいと言われている。ここではモーセが語ることを兄のアロンが代わってファラオに語ること、けれどもファラオはなかなか言うことを聞かないこと、しかし最後にはイスラエルの人たちを救い出す、そしてそのことからエジプト人が、主が神であることを知るようになる、と言われている。ファラオがかたくななのも全部神の計画なのだ、だから心配するな、わたしがあなたを遣わしているのだから、と神はことあるごとにモーセに語っていたということなのかもしれない。
弱気になったり心配になったりするごとに語っていたということなのかなと思う。順調にいかないことも、思うようにいかないことも、却って悪くなるように見えることもあるだろう。しかしその背後には私の計画があるのだ。だから思うようにいかないことがあっても、失敗したように見えたとしても心配するな、大丈夫なのだ、わたしが支えているのだ、と言っているのかもしれない。
心配
そう聞いても、そうだろうなと分かっていても、不信仰者の僕はなかなかすんなり安心できないというのが正直なところだ。
何か問題が発覚するとすぐに不安になり自信もなくなる。礼拝の人数が少なくなったり会計の赤字を見るとすぐに元気がなくなる。この頃思うのは牧師になってからずっとお金の心配ばかりしてるなあと思う。この前雨漏りがして修理してもらったときに、2年後には屋上の防水シートの保障期間が終わっていずれは貼り替えないといけなくて、そのため新しい普通車一台分くらいのお金がかかると聞いてどうなることかと心配してる。
礼拝のメッセージも相変わらず間際までできないし、いつもまとまらないなあと思うことばかりだ。聖書も信仰も分からないと思うことが増えるばかりだし、なんだか牧師をやっているのは間違っているんじゃないかという気になることもある。
モーセが言うように、わたしには何もできません、知恵も力も元気もありません、もう辞めていいでしょうか、と言うような気持ちにもなる。モーセがいろいろと断る理由を挙げていたと同じような気持ちになることもよくある。
一緒に
神はモーセに対して、あなたの兄アロンがあなたの預言者となると言っている。モーセは口べただったか、吃音だったという説もあるみたいだが、どうやら人と面と向かって話しをするのが苦手だったらしい。モーセが神の命令を断ってきた理由の一つでもあった。
そんなモーセに対して神は、アロンがあなたの預言者となると言っている。お前は一人じゃない、お前一人で何から何まで全部やらなくてもいい、一人で全部背負わなくてもいい、協力者を準備しているから一緒にやっていけばいい、神はここでそう言っているような気がしている。
心配ごとがあると、つい自分の力のなさにばかり目が向いてしまう。自分ひとりで悩んで自分ひとりで落ち込んでしまう。けれど神は僕に対して、お前の教会にも協力者がいるじゃないか、いつも少ない少ないと言うけれど、ちゃんといるじゃないか、一人じゃないだろう、一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に心配していきなさい、今日は神からそんな風に言われているような気がしている。そうだったなと思って今日はちょっと嬉しくなっている。