礼拝メッセージより
何人?
3章1節にはモーセがミディアンで羊の群を飼っていたと書いてある。ミディアンとはエジプトの東の紅海の向こうにあるシナイ半島から、さらに東のアカバ湾の向こうにある地域だそうだ。エジプトからは直線でも300kmか400km位は離れている場所だ。
その頃モーセがどうしてそのミディアンにいたのかということは2章に書かれている。
モーセはヘブライ人の子どもとして生まれたけれども、エジプト王の命令でナイル川に流された。しかし王女に拾われ、赤ん坊の時は母親の下で育ったけれども、ある程度大きくなってからは王女の下で育ったようだ。つまりエジプト王家の一員としてエジプトのしきたりに沿ってエジプト人として育てられたようだ。
しかしモーセは成人した頃、エジプト人が同胞のヘブライ人を打っているのを見てエジプト人を殺してしまう。
モーセはどうして自分をヘブライ人だと知っていたんだろうか。小さい頃に実の母親からヘブライ人だと教えられていたのだろうか。それとも王女が、あなたはヘブライ人として生まれてナイル川に流されたのを自分が拾ったと伝えていたのだろうか。それとも見るからにへブライ人の顔をしていて誰の目にも明かだったということなんだろうか。どうしてかは分からないけれど、モーセは自分がヘブライ人だということを知っていた。
当時エジプトではヘブライ人たちは人口が増えて、エジプトの王ファラオはそのことを脅威に感じ、ヘブライ人は差別され重労働を課せられ苦しい思いをしていた。モーセは王家で支配する側のエジプト人として育てられたと思うけれど、成人する頃にはやっぱり自分はヘブライ人なんだという思いが強くなっていたんだろうと思う。
逃亡
そういうこともあってモーセはヘブライ人を助けようとして虐待していたエジプト人を殺してしまったようだ。聖書はさらりと書いているけれど、モーセは殺人犯になったわけだ。ヘブライ人を助けたことでヘブライ人としての自覚を強まったんじゃないかなと思う。
そんなこともあって次の日にはヘブライ人同士のけんかの仲裁もしようとしたらしい。モーセは自分もヘブライ人だから冷静に話しを聞いてくれると思ったいたんだろう。しかしヘブライ人仲間として仲裁をしようとしたのに聞き入れてもらえず、お前は裁判官にでもなったつもりか、エジプト人を殺したように俺も殺すつもりか、なんてことを言われ、こっそりやったつもりの殺人もばれてしまっていたことが分かった。ついにはファラオにも知られ命を狙われることとになってしまう。
モーセはヘブライ人を助けて殺人までしたのにヘブライ人として受け入れられなかったというか、ヘブライ人グループに入ることができなかった。しかしエジプト人を殺したということでエジプト人として生きる術も失ってしまった。モーセへエジプトで生きる場所を失ってしまったわけだ。
40年?
そんなことからモーセはミディアンへ逃げてきた。
2章ではモーセがレウエルの娘たちを、その土地の羊飼いから助け、そんなことから娘の一人であるツィポラと結婚することになり、ゲルショムという息子もできた、そしてその後長い年月がたち、自分の命を狙っていたファラオも死に新しい王の時代となっていたということが書かれている。
3章ではなぜか義理の父親の名前がエトロと変わっているが、エトロはミディアンの祭司で、モーセはそのエトロの羊の群を飼っていた。そしてある時モーセは燃え尽きない柴の中から神の声を聞いたというのが今日の聖書の箇所だ。
余談だが、聖書教育にも他の人の説教にもミディアンに来てから40年がたっていたと書かれている。でも出エジプト記には40年とは書かれていないと思う。どうして40年だと分かるんだろうかと思った。
7章7節には、モーセがその後エジプトに帰ってファラオと会ったのが八十歳と書かれている。でもエジプトで殺人事件を起こしたのは、2章11節ではモーセが成人したころとしか書かれていない。何で40年だと分かるのだろうかと思っていたら、新約聖書の使徒言行録のステファノの話しの中7章30節に、四十年たったとき柴の燃える炎の中で天使がモーセの前に現れた、と書かれていた。
ステファノは何を根拠に40年と言っているんだろうか。出エジプト記に出てくるんだろうか。分かる人は教えてください。
ついでに、その後出エジプトしたイスラエル人たちが約束の土地へ入るまで40年放浪し、モーセは約束の土地をへ入る直前に死ぬことになる。申命記の最後34章7節にはモーセが死んだとき120歳だったと書かれている。
ということはエジプトで暮らしたのが40年、ミディアンで40年、放浪生活が40年ということになる。随分と綺麗に揃ってるなあという気もする。
召命
それはともかく、モーセが神の召命を受けたのは80歳のころだったらしい。神は燃えるけれど燃え尽きない柴からモーセに語りかけたとある。真っ赤に見える柴があったのだろうか。
神の言葉は、苦しめられているヘブライ人を救うためにお前をファラオのもとに遣わす、と言うことだった。
人生の三分の二を過ぎた頃だった。決して若くはない、老人に近いような年齢だった。しかも自分が逃げてきたそのエジプトへ帰り、代替わりはしているとは言っても、絶大な権力を握っているファラオに対峙しろというのだ。そんなこと言われても、という気持ちになるのが当然だろうと思う。
ちょっと待って
最初のモーセの返事は3:11「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」というものだった。
本当は、何を馬鹿なことを言ってるんですか、というのが正直な気持ちだったんじゃないかと思う。
わたしは何者でしょう、というのは要するに私には何もないということだろう。何もない、そんな大それた事をするような力も何もないということだ。何もない自分をどうして、それがモーセの気持ちだったのだろう。
神はそんなモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる。そのことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言った。
どうしてこんなこと言ったんだろう。ちぐはぐな答えだな、というか答になってないという気がする。どうしてモーセがイスラエル人を導き出すのかという理由はここにはないように思う。そもそも自分を遣わすしるしは何なのかと聞いたわけでもない。
神はただ、わたしは必ずあなたと共にいると言うだけだ。これはモーセを遣わす理由なんだろうか。実は理由は何もないのかもしれない。というか何もないモーセを神が選んだ、しかし神は何もないモーセと共にいると言っているような気がしている。
何者?
モーセは自分の無力さに打ちひしがれてその無力さを嘆いていたんじゃないかと思う。ヘブライ人として生きようとしたけれども失敗し、かといってエジプト人にも戻れない。ミディアンに逃げてひっそりと生きていたんじゃないかと思う。
でもそんなモーセを神は選んだのだ。自分の無力さに打ちひしがれて、逃げていった者を神は神の壮大な計画のリーダーにした。
モーセはやがてエジプトへ帰って行く。逃げてきた所へ帰って行く。それはモーセにとってはとても大変しんどいことだっただろう。
その神の呼び掛けに応えるためには自分の無力さを知る必要があったのかもしれないと思う。モーセは自分の無力さを知ることで神に聞く、神に頼る術を知ったのかもしれないと思う。
人間のいろんな思い、嘆きや悲しみや失望などもはらみつつ、巻き込みつつ神は計画を進めていくようだ。モーセは壮大な計画のために呼ばれた。わたしは何者なのでしょう、というモーセを選ばれた。
ということは、私たちもそれぞれに神の計画に参与するように呼ばれる、ということかもしれない。ならば私たちも、わたしは何者でしょう、と言いつつ神に従って生きたいと思う。神は私たちにも、あなたと共にいると言ってくれているに違いない。