礼拝メッセージより
虐殺
イスラエル人、ヘブライ人とも言うけれど、彼らにとって出エジプトは信仰の拠り所みたいだ。旧約聖書には、自分達はエジプトから救い出された民である、救い出してくれた神の偉大なみ業を忘れるなというような言葉が至る所に出てくる。
今日の聖書はその出エジプトの際に民を導いたモーセの誕生について書かれている箇所だ。その頃はエジプトの王であるファラオが、人口が増えたイスラエル人を脅威に感じている時だった。そこでイスラエル人に重労働を課したが、今度は生まれてくる男の子の命を奪うという計画を立てたという。
王は最初ヘブライ人の助産婦に、ヘブライ人が出産する時に男の子だったら殺せという命令を出した。しかし助産婦はその命令に背いて、王にはヘブライ人は自分達が行く前に産んでしまうからと弁解したと書かれている。しかしそもそも助産婦にとって産まれてくる赤ん坊を殺すなんてことができるんだろうか。聖書には神を畏れていたから王の命令に従わなかったと書かれているけれど、新しい命を取り上げる助産婦に、その命を殺すなんてこと自体、ほぼほぼ無理な命令だったんじゃないかという気もする。助産婦と書かれているから女性なんだろうけれど、そういう仕事をしている女性だからこそ余計に命に対する畏敬の念があって、その命を粗末にする馬鹿な王の命令なんかに従ってられるかというような気持ちがあるんじゃないかなという気がする。
本気で殺したいなら産まれた後でも殺せと兵隊にでも命令すればいいんじゃないかなんて思ったりもするけれど。
そこで王は次の命令を出したということのようだ。1:22「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。』」
これだとエジプト中の男の子をナイル川にほうり込めと命令したことになるけれど、話の筋から考えるとヘブライ人の男の子をナイル川にほうり込めということなんだろう。直接手を下すんじゃなくて川にほうり込む方が容易いのかな?そんなことないか。
モーセ誕生
そんな時にモーセが誕生したというのだ。イスラエル人の男として生まれることが命の危険にさらされるという時代だったわけだ。
モーセの両親はレビの家系だったと書かれている。ここには名前は出てこないが、別の所には父親がアムラムで母親はヨケベドだと書かれている。
二人が結婚して生まれたの最初の子がモーセだったような書かれ方をしている。その子がかわいかったから王の命令に背いて三ヶ月間隠していたと書かれている。自分の子供はだいたいかわいいけどなあ。
でも隠しきれなくなったので防水処理をした籠を作ってナイル川の葦の茂みの間に置いた。たまたまそのモーセを王女が発見した。ヘブライ人の子だと気付くけれど不憫に思い助けた。
ちょうどそこへモーセの姉が登場する。モーセが最初の子じゃなかったのかな。そして姉はヘブライ人の乳母を呼んできましょうか、なんてことをいう。そしてモーセは母親の元へ帰ることになる。
王女はモーセを自分の子供とすることにしたらしい。けれど王の命令に背いてまでイスラエル人の男の子を自分の子どもとするというのはどういうことなのだろうか。
しかも手当てまでつけるという。モーセの母親は自分の子どもの世話をするのに王女から手当てをもらうことになる。こんなうまい話があっていいのか、と思うほどだ。
モーセの名前は王女がつけたと書かれている。引き上げた、というマーシャーという言葉からつけられた。ヘブライ語ではモーセというよりも、モーシェという音に近いそうだ。
計らい
王がヘブライ人を脅威に思うようになったことから、ヘブライ人の男の子は生まれてすぐに命の危険にさらされることとなった。モーセ以外の男の子はどうなったんだろうかという気もするけれど。
実際時の権力者によって、その権力を守ろうとすることによって犠牲となる者がいる。何とも理不尽なコトだ。この世はそんな理不尽が渦巻いているといえるのかもしれない。神がいるならどうしてそんなことが起こるのか、というように思うこともある。悪い者がいい思いをして、いい生活をしている。そんなことがあっていいのかと思う。悪巧みに長けている者がいい思いをする世の中なんてのは間違っている。そんなことをどうして神は許すのか、と思う。
何とも理不尽な世の中である。しかしそんな理不尽な世の中に神は介入してきた。神が見放したからこういう世の中になっているのではなく、こんな世の中にも神は介入している、見放してはいない、モーセの誕生の物語はそれを語っているようだ。
女性
生まれたばかりのモーセを救ったのは女性たちだと書かれている。当時の女性たちは、今よりももっと社会的には弱い存在だったようだ。しかしそんな者たちが神の計画の中心人物となっている。そんな力の弱い女性たちを通して神の偉大な計画が実行されている。
力を持つ男たちは力ずくで、なんでも自分の思い通りにしようとする。自分が力を持てば何でもできると思っている。王がまさにそうだ。しかし神は弱い者を通して働かれるようだ。一つ一つの出来事はたまたま起こったに過ぎないような小さなことだ。たまたま王女がやってきて、たまたまモーセを発見して、たまたま乳母の話が聞き入れられて、そんなたまたまの積み重ねのようなところでモーセは救われ、イスラエルの民は救われていった。神はそんな仕方で神の計画を実行しておられるのかもしれない。
危機
イスラエル存亡の危機は力の弱い女性を通して回避されるコトになった。滅亡へと向かっていくと思われていた時、しかし神はそこで計画を持って働かれていた。表だって誰の目にも見えるような仕方ではない、けれども確実に神は見えないところで働かれていた。
いかにも不条理な世の中に私たちも生きている。どうして私がこんなに苦しまないといけないのか、どうして私がこんな病気になるのか、どうして私達がこんなことになるのか、そう思うことも多い。神がどこにいるのか、どこでどう働かれているのか、そんな思いになることも多い。
しかし神が力の弱い女性を通してモーセを守りイスラエルを守られたように、微力な私たちを通して働かれる、そのことを聖書は伝えているのではないだろうか。
微力、無力
8月は平和を考える月で、今日は長崎の原爆の日だ。そして今日の礼拝は一応だけれど平和礼拝ということにしている。
昨日チラッと聞いたラジオで、本当にチラッと聞いただけだけれど、広島で何かをなんとか遺産とかに登録するというような時に、平和という言葉はよく使われるけれど、原爆という言葉がだんだんと使われなくなっているというようなことを言っていた。
平和って言葉は綺麗だけれど原爆ってのはどろどろしているような気がする。でもどろどろした現実を見ることが大事なのだと思う。そしてどろどろした現実ということでいうと、自分達が受けた被害という現実と、自分達がやらかしたという加害者としての現実も見ないといけないんだろうと思う。加害者としての責任というものからどんどん目を背けるような風潮が強くなっているんじゃないかと危惧している。
そしていつも思うのはそんなことを自分が考えることがどれほどの意味があるのだろうかということだ。力の弱い、影響力もほとんどない自分が何か言ったからといってどうなるものでもないんじゃないかと言う気になる。自分が何かしたって微々たるものでしかないような気持ちになる。
いつだったかそんなことを思っている時に、「私たちは微力である、しかし無力ではない」という言葉を聞いた。
モーセは微力な女性たちによって助けられたということを今日の聖書は伝えているように思う。微力な者たちの小さな働きによって民は守られ救い出されることになった。
私たちの働きも微力だなと思うし、教会で平和について語ったってどれほどの意味があるのかと思わないわけではない。でもその小さな働きが大事だ、そしてその小さな働きの中に神が力を現れる、今日の聖書はそのことを伝えているのではないだろうか。
この微力な私たちを、微力な自分を大事にし、微力な働きを大事にしていきたいと思う。イエスはこの微力な私たちと共にいてくれている。