礼拝メッセージより
エジプト
出エジプト記の最初に、唐突にエジプトへ下った人達の名前が出てくる。その前段の話しは創世記の後半にあって、そこではヤコブの家族の話が詳しく書かれている。
ヤコブはイスラエルの祖先、信仰の父と言われるアブラハムの孫である。アブラハムは神に祝福されたと書かれているけれど、アブラハム一家は家族の中にいろいろな諍いのある家庭であり、ヤコブの子どもたちもその例にもれず兄弟間での軋轢がいろいろとあった。ヤコブは二人の姉妹を妻としていたが、妻たちの仲も決して良くはなかった。当時は子供を持つことが祝福されている妻の証しであるというような考えもあったので、それぞれの召使いを巻き込んで子供を持つ競争をしていた。その結果妻二人とそれぞれの召使い一人ずつの4人の母親から12人の息子と一人の娘が生まれることとなった。
そんなことからも当然のように子どもたちの間に諍いがあり、その結果ヨセフという一人の息子がエジプトへ売られていくことになったが、そのヨセフはエジプトで王に継ぐ総理大臣のような地位に就くことになった。
そしてこの地方一帯に大きな飢饉があったが、ヨセフの神から与えられた知恵によって飢饉の前に食料を貯えることによってこの危機を脱し、周りの国からもエジプトへ食料を買いに来るようになった。そんなことからヨセフの兄弟たちもエジプトへやってきてヨセフと再会した。その後兄弟たちがユダヤとエジプトを行ったり来たりするようなこともあったが、結局ヤコブ一家はエジプトへ移住することとなった。
そして出エジプト記の最初にエジプトへ下ったヤコブの子どもたちの名前が書かれているという訳だ。孫も合わせると70人と書いているが、創世記46章にはそのヤコブの孫たちの名前も書かれている。
虐待
イスラエル人と言ったりヘブライ人と言ったりユダヤ人と言ったりするけれども、出エジプト記12章40節によると彼らがエジプトにいたのは430年間だったと書かれている。ヨセフのいた時代から400年ほど経ったころというのが出エジプト記の時代ということになるようだ。
1章8節に、ヨセフのことを知らない王が出たとある。時代的には紀元前1290年から1224年に在位したラメセス2世の時代だろうと言われている。
この時代にイスラエル人の数が増えて、戦争の時に敵側についてしまうとまずいということで、人数を減らそうとして重労働を課して虐待した。けれど逆に人数は増えていったというのだ。創世記には天地創造物語の中で「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福の言葉がある。民の数が増えることは神の祝福だと考えられている。しかしそのことに王は危機感を抱き、重労働を課してきた。しかしそれにも関わらずイスラエル人の人口は増えていったという。権力者が策を弄してイスラエル人を弱体化させようとしたけれども、神の祝福はそれをもろともせずに広がっていった、神の祝福は誰をも止められない、ということを言おうとしているような気がする。
治世
権力者にとって民が一致団結されることが恐いと聞いたことがある。団結して権力者に刃向かってこられることが恐いそうだ。そうなったらそれを押さえ込むことは至難の業だ。そうならないように権力者は民が団結できないように考えるそうだ。団結できないように、民同士が対立するように仕向けるそうだ。そのためにも一部の民を差別し分断するそうだ。
日本でも中国人や朝鮮人というだけで、悪くいったり見下したりする風潮があるように思う。僕も子供の頃から、あそこは朝鮮だから、というようなことをよく聞かされていて、いつの間にか下に見るような気持ちが染みついている。人間同士、上下はないと頭では理解しているつもりでも、何だかよく分からないけれど差別的な感情をぬぐいきれない所がある。ネットを見ていると、問題がおこるとほとんど反射的に、在日だからとか国に帰れとかいう人がいるけれど、そうやって民衆同士が敵対してくれることは権力者にとっては好都合なことなんだろうなと思う。
イスラエル人たちも、こいつらは人口も増えていつ反旗を翻すかわからない、エジプトにとっては危険分子になりかねない、だから重労働を課してもいい、差別されて当然だ、そんな境遇に置かれることになったということなんだろうなと思う。
希望
この出エジプト記は創世記の続きとなっていて、その後のレビ記、民数記、申命記のモーセ五書と言われる五つがもともと一つの書物だったのだそうだ。そしてこれらがまとめられたのは後にイスラエルがバビロニアという国に滅ぼされて、国の主だった多くの人達がバビロンに連れて行かれていた、所謂バビロン捕囚の時代だった。国が滅ぼされ夢も希望も持てないような時代だった。その時に出エジプト記もまとめられた。まさに希望が見えない、希望を持てない時代にまとめられた。
かつてイスラエル人だからということで、エジプトで重労働を課され、子供の命を狙われるという苦しみを経験した先人たちに、同じ異国の地で苦しんでいるバビロンに補囚されている人達は思いを馳せていたということだ。そしてエジプトから救い出されて約束の地へと入っていったという先人たちの経験は、バビロン捕囚のただ中にいる民にとっては何よりの希望だったに違いないと思う。
補囚がいつまで続くのかも分からない。将来どうなるのか全く見通しの立たない状況だったのだろう。これは仕方ないことだ、何も期待してはいけないと諦めの気持ちになった方が楽だというような状況だったのではないかと思う。
しかしそんな人達に対して出エジプトの出来事は、希望を失ってはいけない、希望はなくなりはしないと語りかけているように思う。今は苦しい、けれども私たちには神がいるではないか、神が共にいるではないか、だから希望を持とう、持ち続けよう、この出エジプト記をまとめた人達はイスラエルの民にそう語りかけているように思う。
希望を持てるような出来事が何もなかったとしても、神に希望を託すならば、どんな時でも希望を持ち続けることができる。私たちには目に見えない神がついている。神は私たちの目に見えない仕方で私たちを支えてくれているに違いない。だから目に見える希望が全くなくなった時でさえ、見えない神に希望を持とうと言われているのだろう。
私たちの今の状況も同じような状況かもしれない。コロナの問題はいつ終息するのかまるで見えない。個人的にもいろんな問題が山積みで先行きも見えない、この大変さはいったい何時まで続くのかと思うような状況かもしれない。しかし希望はいつまでも残る、と聖書は告げている。
最近こればっかり言っているようだけれど、新約聖書のコリントの信徒への手紙一13:13「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」という言葉がある。
希望は信仰と愛といっしょにいつまでも残ると言われている。希望をなくすと人間は死んでしまうんじゃないか、あるいは死んだように生きるしかなくなるんじゃないかと思う。
しかし死にそうな大変な状況の中でさえも、私たちは希望を持つことができるんだ、目に見えない神に希望を託すならば、どんな状況でも私たちは希望を持つことができる、希望をもって生きることができる、とこの出エジプト記をまとめた先人はバビロン捕囚にある人達だけではなく、私たちにも訴えているようだ。
礼拝の人数とか、会計報告の数字とか、そんな目に見えるものに希望を託したいと思うけれども、そんなものが見つけられない時は生きる力も失いそうになる。
しかし何よりも私たちにはイエスがついている。いつも一緒にいてくれているイエスが「大丈夫だ、私がついている」そう言ってくれている。私たちはこのイエスと共に生きていく、ここにこそいつまでもなくならない、最後まで残る希望の源がある。
見える希望の源が見つからなくても、見えない希望の源がここにある。