礼拝メッセージより
働かざる?
「働かざる者食うべからず」って言葉をよく目にする。働いていない者は食べてはいけないとか、金を稼いでいない者は食べてはいけないかのような解釈をしているような気がする。というかこの言葉だとそう聞こえるよなと思う。
ネットにもこの言葉に関していろんな人が書いているが、もともとは今日の聖書の3章10節の言葉からきているそうだ。
そのネットに面白い話しが載っていた。この言葉の関連である本のことを紹介していて、そこにはこんなことが書かれているそうだ。
【第一に、既に述べたようにいい働きにはきちんと報いることで、これは何度強調してもしすぎることはない。さんざん苦労したのに怠けていた者と同じ食事しかもらえないとしたら、どんな者でもやる気をなくす。彼ら一人ひとりに長期目標を持たせることも重要である。
第二に、役割分担を明確にするといい。分担が明確になれば責任の所在も明らかになる。なお、彼らはグループで働かせると仕事が早くなり、集中するようになり、出来も良くなる。
管理人や作業長など、彼らの中でも上に立つ者たちには特別な報酬を与えて士気を高め、いっそう精を出すように後押しするといい。
妻子を持てば腰を据えて仕事に取り組むようになり、あなたの家の繁栄に貢献したいと思うようにもなる。
また彼らの立場にふさわしい敬意を示してやれば、心をつかむこともできる。
彼らが徳高く勤勉になるように願っていても、実際に彼らを働かせるには、時には力づくでわからせるしかない場面も出てくる。反抗的な者に理屈は通じないし、動物と同じで鞭を使わなければ態度を変えさせることはできない。】
最後の方の力づくとか鞭とかいう過激な言葉が出てくるけれど、実はこの本というのは「奴隷のしつけ方」という本だそうで、ローマ帝国時代の奴隷の管理方
法の話しということになっているそうだ。案外今でも似たようなことを言われているような気もする。経営者が従業員に働いてもらうためにというか、働かせる
ためにどうすればいいのかという話しと似ている。あるいは国家が国民を働かせるためにどうすればいいのかという話しとも似ている。つまり下々の者を働かせ
るためにはどうすればいいのかという方法論のような気がする。
その流れで、働かざる者食うべからずという言葉がよく使われているなと思う。働いてお金を稼いで、しっかりと税金を納めている者こそが食べることができ
る、稼げなくて税金もろくに納めていない者が偉そうにするな、というような上から目線の言葉として使われることが多いような気がする。働いていない、働け
ない、稼げない者を迷惑な者だというような見方に繋がっているような気がする。そしていつしか誰もがそんな価値観を持たされているというのが現状じゃない
かと思う。いっぱい稼ぐ人こそが成功者、勝ち組であって、稼ぎの少ない自分は落ちこぼれのような意識が僕自身の中にもある。障がいや病気で稼ぎのない人は
ただ迷惑な存在であるかのような、社会の何の役にも立っていない人は生きている意味もないというような、そんな考えにも繋がっているなあと思う。
働きたくない者
「働かざる者食うべからず」という言葉は今日の聖書から来ているそうだけれど、でも見れば分かるように聖書には働かない者は食べるなとは書いてなくて、働きたくない者は食べてはならないと書いてある。働かない者と働きたい者はだいぶ違うなあと思う。
働きたくない者とは、働けるけれどやりたくなくてしない者ということだろう。ここではどういう人のことを言っているんだろうか。そのすぐ後には、怠惰な
生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる、と書かれている。どういうことなんだろうか。余計なことってどういうことなんだろうか。もう少し
具体的に書いてくれていたら分かるのになあと思う。
この手紙を書いたパウロは(パウロじゃないという説もあるけれど)、自分たちには援助を受ける権利があったけれど模範を示すために働いたなんてことを
言っている。ということはパウロと同じような立場で援助を受けて働かない人がいたということなんだろうか。教会の指導者的立場にあることで、働かなくなっ
た人がいたということなんだろうか。そう思う、お前は怠惰な生活をしていると言われているようでドキッとする。
あるいはそうじゃなくて、終末がすぐ来るから今更働いて稼いだって仕方ない、ただ終末を何もせずに待っていればいいというように思っている人のことだろ
うか。明日世の終わりが来るならば、今日働いた分の給料はもらえないだろうし、だったら働いたって意味がないという気になるだろうなと思う。それで何もせ
ずに、早くイエスが来ないかなあと見上げているような状態、それを怠惰な生活と言っているのかもしれないなあと思う。
ある牧師は、最後の日が近いからそのために私たちは祈りに専念する、だからその分あなたたちは私たちにパンを与えてくれ、と言っているような状態なので
はないかと書いていた。働きたくない者、と言われているということは、祈りに専念するからと言うことを口実として、しんどい仕事をさぼっているというよう
な人のことなのかもしれない。
でも本当に明日の10時にイエスがやってくるとはっきり分かっているとしたら、そして空中に引き上げられると分かっていたら、仕事なんてしないよなと思う。それでも働けという方に無理があるような気がする。
しかし実際にははっきりしない。明日かもしれない、けれども明日ではないかもしれない、それは分からない、だから淡々と毎日を過ごすようにということな
のではないかな。最後の日がいつ来てもいいように、たとえ明日だとしても、今日をいつものように過ごしなさいと言っているのかなという気がしてきた。
善いこと
13節では、「そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」と言われている。やたら点(、)が多いなあ。たゆまず善いことをしなさ
いというのも淡々と毎日を過ごしなさい、終末がすぐ来るとしても、そのために今の生活を変えるのではなく、仕事をやめたりさぼったりするのではなく、淡々
と過ごしなさい、いつものように善いことを続けなさい、そう言われているような気がする。
働かざる?
働かざる者食うべからずというのは、マルクスが生産に役立たない者は食べる資格がない」という意味に使い始めたそうで、今でも社会に役に立たない者は生きる意味がない、というような考えが広まっているように思う。
でもこのテサロニケの手紙がそんな意味で言っているのではなくて、怠けて働かない者を戒めて、日々の務めを淡々と果たすようにということであって、働けない者は食べる資格がないと言っているわけではないということは覚えておきたいと思う。
どれだけ働いているかというか、どれだけ稼いでいるかという見方をしてしまっている。そして自分より多く稼ぐ人を見上げてはひがんで、少ない人を見ては安心するような気持ちが
強い。そしてちっとも稼げてない人には価値がないような見方をしてしまう。人と自分を比べて一喜一憂している。
共に
でも最後に思い出した言葉、それはローマの信徒への手紙12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
働くことの意味や経済の仕組みとはよく分からないことだらけだけど、大事なのは共に生きるということなんじゃないかなと思う。共に生きるためにそれぞれ
働くんじゃないのかなと思う。屁理屈というか無茶ぶりかもしれないけれど、共に喜び共に泣く、これこそが13節でたゆまず善いことをしなさいと言われてい
る善いことなんじゃないのかなという気がしている。