礼拝メッセージより
明日で世界が
終末の話しが出てくるので、ルターが言ったという「明日で世界が終わるとしても、私は今日リンゴの木を植える」というような言葉があったなあと思ってネットで調べようとした。それで「明日で世界が終わるとしても」って検索したら『あした世界が終わるとしても』というアニメの映画のサイトがいっぱい出て来てびっくりした。
それはいいけど、明日世界が終わるとしたら今日は何をするだろうかと考えると何をすればいいのかよく分からない。人生最後の食事は何を食べたいですか、なんて話しをしているテレビもあったような気がするけれど、何を食べたいのかもよく分からないなあと思う。実際には最後の時のことを真剣に考えられないし、聖書の終末の話しもどことなく遠い話しでピンと来ない。当時の教会の人はその時が本当にもうすぐ来るとか、もう来てるとか思っていたんだろうか。
再臨
もうすぐ世の終わりがやってくる、キリストが再臨する、それは何年何月何日だ、というようなことを言う牧師が時々現れる。もう終わりなんだから財産をもっていても仕方ない、全部神に献げなさい、教会に献金しなさい、というようなことを言ったという話しも聞いたことがある。
ネットを見ていると、世界聖書協会のトップだったという牧師が『キリストが天に現れて敬虔なキリスト教信者たちを空中に引き上げていったん天国に連れて行くイベントである「携挙」が起こるのが2021年である」と言っていたという記事が出ていた。第一次世界大戦、第二次世界大戦、飢饉、疫病、地震がその証拠だと言っていたそうだ。
福音書には終末には戦争や地震や飢饉があるなんてことをイエスが語ったとあって、今はまさにその時だ、と言われるとそんな気にもなる。確かに戦争も地震も飢饉もあって、イエスのことば通りと思うこともあるけれど、でも福音書をよく見るとイエスは「太陽は暗くなり、月は光を放たず」なんてことも言っていて、そうすると太陽も月も輝いているからまだ終末じゃないということになりそうだ。
そもそもイエスは、「その日その時は誰も知らない、父だけが知っていて天使も子も知らない」と言っていて、そこのところはどうなるんだろうかと思う。2021年に終末がやってくるというようなことを言う人は、そこのところはどう考えているんだろうかと思う。
主の日
「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」というのがこの手紙を出した目的だそうだ。
主の日が既に来ているということで分別を無くしたり、慌てふためくとはどういうことなんだろうか。どうして慌てるんだろうか。
福音書には「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。」なんてことをイエスが語ったと書かれている。
終末と言われたり主の日と言われたりしているけれど、実際何がどう起こるのか、どうなると言われているのか、僕はあまりよく分かっていない。福音書では大変な苦難があるような書かれていたり、テサロニケの信徒への手紙一の方では死んでいた人が復活したり、空中で主に会うなんてことも書かれていたり、僕の頭の中では全然整理できていない。もしかしてこの手紙の時代のテサロニケの教会の人たちもそんな状態だったのかもしれないなという気がしてきた。終末に主がまたやってくるということは聞いているけれど、何がどうなるのか分かっているような分かってないような状態だったのかもしれない。
慌てるな
この手紙ではイエスが来られる前に不法の者、滅びの子が現れることになっているけれど、その不法の者はまだ現れてはいないと言っている。だからイエスもまだ来ていない、まだ終末ではないと言っている。だから落ち着きなさいということのようだ。
終末に何がどうなるのかよく分かってない時に、もうやってきたと言われたら、そりゃ慌てるよなと思う。心の準備も出来てないような時に、その時が来たと言われると、自分は一体どうすりゃいいんだ、大丈夫なんだろうかと心配になるだろうなと思う。
避難所
その時に自分が安全なのかどうか、大丈夫なのかどうか、それが分からない時には慌てるだろうなと思う。いざという時に早く避難所に逃げ込まないと助からないと焦っているような状態かなと思う。
でもこの手紙では、まだその時ではない、先に不法の者たち、真理を信じないで不義を喜んでいた者たちが裁かれるのが先だ、だから慌てる必要はないと言っている。
そして何よりも神はあなたがたを救われるべき初穂として選ばれた、主イエス・キリストの栄光にあずからせるために招かれたというのだ。
要するにあなたたちはすでに神の手の中にいる、神の手という避難所にいて守られているんだと言っているようだ。
まだ避難所に入っていないならば、避難所はどこにあったかと捜さないといけないし、そこまでどうやって行けばいいか考えないといけない。急に避難しないといけないような状態になったとしたら、そりゃ慌ててしまうだろうなと思う。
しかしあなたたちは、今から慌てて避難所を捜して、慌てて避難所へ逃げていかないといけないというわけではないんだ。もうすでに避難所にいるんだ、もう神の手の中にいるんだ、だから慌てる必要は全然ない、安心していなさい、そう言っているようだ。神があなたたちを選び、神が招いてくれて、この神の避難所にもうすでにいるのだと言っているようだ。
神の避難所にいる、神の手の中にいる、だから神の教えを固く守り続けなさいと言っている。そして「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵によって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも良い働きをし、良い言葉を語る者としてくださるように。」と願っていると言うわけだ。
終末のこと、主の日のことを徒に心配し、慌ててそわそわして生きるのではなく、良い働きをし、良い言葉を語る者となってほしい、だからそのことを心配しないで安心して今日一日を大事に生きて欲しい、あなたたちはいつ世の終わりが来ても大丈夫だ、もうすでに神の手の中にいるんだ、もうすでに神の避難所にいるんだ、この手紙は私たちにもそう語りかけているのではないかと思う。