礼拝メッセージより
迫害
テサロニケの教会は迫害に遭っていたようだ。しかしこの手紙は迫害と苦難があることはあなたがたが神の国にふさわしい者であるとする神の判定が正しいという証拠だと言う。そして神はあなたがたを苦しめている者に苦しみをもって報い、あなたがたには休息をもって報いて下さるという。そして主イエスが来られる時には、神を認めない者や主イエスの福音に聞き従わない者に罰を与えるという。それは主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰だと言う。
主が来られるかの日、そして主は信じる者たちの間でほめたたえられる、そして主によって誉れを受けるようになるために、神があなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、その御力で善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように祈っているという。
ピンとこない
聖書教育には「今、復活のイエスさまが私たちの世界に来てくださることを待ち望んでいると感じますか?正直ピンと来ない人もいるのではないでしょうか。」とあったけれど、その通り正直ピンと来ない。「かの日」に神を認めない者に罰を与えるなんて言われると、信じていない自分の家族はどうなってしまうんだろうかと思ってしまう。
それにもうすぐ来ると言われつつ二千年来てないのに、それを今待ち望むなんてことできるんだろうかと思う。
1970年、小学生3年生位の頃大阪で万博があって家族で行ったことがある。記憶はだいぶおぼろで、後で見た夢と現実が混じっているようなところがあるけれど、親父が船乗りをしていて、確かフェリーじゃなくて親父の仕事の関係の船で大阪に行ったような記憶がある。
その時何軒か関西の親戚だか知り合いだかの家に泊めてもらった。その内の一件の家でルーレットのおもちゃを貸してくれて、それがすごく面白くてずっと遊んでいたみたいで、そこのおじさんが後で送ってあげると言ってくれた。そして大阪から帰ってからそのルーレットが届くのを待ってた。明日は届くかな、明日かな、明日こそかな、と待ちつつなかなか届かなくて、結局未だに届いていない。
世の終わりにメシアが全てを支配するというような終末がやってくるという考えがユダヤ教にあって、ユダヤ教徒であったパウロも同じように思っていたようだ。終わりの日にイエスが再びやってくる、それももうすぐ、当然自分が生きている内にやってくると思っていたようだ。パウロの手紙を読んだ教会の人たちも同じように思っていたんだろうと思う。迫害や苦難の中にある教会はその日がやってくる、イエスが再びやってくる、自分達を解放し自分達を苦しめている者を裁いてくれる、そんな希望を持っていたんだろうと思う。そんな日が早く来て欲しいと思っていたんだろうと思う。そしてその希望を持って苦難を耐え忍んでいたのかなと思う。
それが明日か明後日かということならまだ耐え忍ぶことができるけれど、何年も何十年も実現しないと、そこに希望を持つのは難しいんじゃないのかなあ。いつかルーレットが届くかもしれないなんて思えないし。「かの日」に希望を託して今の苦しさを耐え忍ぶという信仰を持つ人はすごいなと思うけれど、僕には無理だなと思う。それともそこにしか希望を持てないというような大変な状況なんだろうか。
共に
僕にとっては「かの日」がイエスが再びやってくることを待ち望むというよりも、今もイエスが共にいることに希望を持っている。見えないし触れないけれど、イエスが共にいてくれている、そこに希望を持っている。希望を持っているというかそれが支えになっている。
いつも心配ばかりしている、いつも不安でいる、聖書に書かれていることも本当かいなと疑ってばかりいるこんなだらしない不信仰なこんな自分にも、大丈夫、お前はお前で良い、お前が大切だ、そう言ってくれているイエスがいつも一緒にいてくれる、それこそが僕にとっては支えになっているなあと思う。
希望
今日の手紙に書かれていることが正しくて、そのことを信じること、「かの日」を待ち望みそこに希望を持つことが正しい信仰のあり方なんだろうか、そうだったら僕は間違った信仰を持っているんだろうかなんて思ってしまっていた。この手紙がパウロの手紙なのかどうかということも議論のあるところらしいけれど、そもそもパウロがどうして「かの日」のことを知っているんだろうかなんて思っている。パウロがユダヤ教の中で育ってきたから、そのユダヤ教的な終末思想に影響されてるだけなんじゃないのかなあなんてことを考えてしまって素直に信じられないところがある。イエスはどこにいるんだろうかという気になってしまう。
でも結局どっちでもいいんじゃないかという気がしてきている。この手紙にあるように苦しみは私たちを成長させるための苦しみ、神の国のための苦しみであり、やがて「かの日」がやってきて正義を行ってくれるということに希望を持って今の苦難を耐え忍ぶことができるならそれもいいし、今もイエスが共にいてくれるから苦難を耐え忍ぶことができるならそれでもいいじゃないか、希望を持って生きられるならどっちでもいいじゃないかという気になっている。
むしろ両方信じられたら一番いいかなという気になってきた。イエスは今は見えない形で共にいてくれていて、「かの日」には見える形でやってきてくれると信じられたら最強かもしれない。
兎に角どちらにしろ希望を持つことが大切だ。以前言った映画の中の台詞「希望はいいものだ。多分最高のものだ。素晴らしいものは決して滅びない。」これは本当だろうと思う。
私たちは見える所に希望が持てなくても、この世に希望が持てなくても、この神に、イエスに希望を持つことができる。今は苦しい、でもこの苦しみは神に見捨てられた苦しみではない、この苦しみも神の手の中にある苦しみなのだ、だからこの苦しみを耐え忍んで欲しい、この苦しみの中でも希望を失わないで欲しい、この手紙はそんな思いで書かれているように思う。