礼拝メッセージより
「やってごらん」 2020年7月5日
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 5章12-28節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
結び
12節に「兄弟たち、あなたがたのお願いします」とあるようにパウロは手紙の最後にテサロニケの教会へのお願いを書いている。14節では「兄弟たち、あなたがたに勧めます」とある。内容的には、これこれしなさいということが続いていて命令に近いような気もするけど。大事なことだから、是非ともやって欲しいことだから命令口調になっているんだろうか。
その内容は、導き戒めている人々を重んじ愛をもって心から尊敬すること、平和に過ごすこと、怠けている者たちを戒めること、気落ちしている者たちを励ますこと、弱い者たちを助けること、全ての人に対して忍耐強く接すること、誰に対してもいつも善を行うよう努めること、いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝すること。
前半は対人関係のことを語っているようだ。先ずは主に結ばれたものとして導き戒めている人々のこを重んじ尊敬しなさいという。誰のことなんだろうか。教会の指導者のことか、牧師とか執事とかのことなんだろうか。ここで気にかかるのは、「あなたがたの間で労苦し」とあることだ。毎週メッセージに苦労している俺のことか?と思ったりしている。だから牧師を尊敬しなさい、なんて口幅ったくて言えないけど。
続いて怠けている者や気落ちしている者や弱い者たちに関する言葉がある。怠けているというのがどういうことなのかよくわからないけれど、そういう人達も大事にしなさい、忍耐強く接しなさいと言っている。
教会ってのは、神を見上げていつも明るく元気でいる人の集まりというわけではないということなんだろうと思う。気落ちしてる人や弱い人や、沈んでいたり悲しんでいたりする人だっている。気落ちしてても弱くてもいい、そういう人も教会にいていいということだろうと思う。パウロはそういう人達を責めるのではなく励まし助けなさいと勧めている。元気な人達がそういう人達を支えなさい、それが教会だと言っているような気がする。そして悪をもって悪に報いるな、誰に対してもいつも善を行うようにと勧めている。
いつも、絶えず、どんなことにも
それに続いて、そしていつも喜ぶように、絶えず祈るように、どんなことにも感謝するようにと言う。
そんなことできねえよ、と思う。嬉しいことがあれば喜ぶけど、いつもいつも嬉しいことがあるとは限らない、というか嬉しいことってあんまりないような気がする。でもよく考えると嬉しいと思うかどうかって案外自分が決めていることかもしれないなあという気もする。
神学校の時に「感謝やなあ」が口癖の関西から来ていた神学生がいた。癖になっているような感じがして、義務的に言っているだけのような、信仰的な振りをしているだけのように思っていた。けれど案外そう口にすることで感謝する気持ちになっているというか、感謝する気持ちになれるのかもしれないなあという気がしている。いつも感謝しなさいなんて言われても、何を感謝すればいいのか、感謝できることなんて何もないと思ってしまうけれど、案外そう思う前に「感謝やなあ」と口にすることで感謝できるのかもしれないなあなんてことも思う。感謝なんかできないと思っていたことが感謝できるようになるのかもしれないという気がしている。
smileという曲を思い出した。『smile though your heart is aching...』って奴。
『笑ってごらん 心が痛む時でも
笑ってごらん たとえ心が張り裂けそうな時でも
不安や悲しみの中でも笑っていれば
空に雲が垂れ込めている時にも切り抜けることができるよ
笑ってごらん
そうすればきっと明日には 太陽の光が差し込んで来るのを目にするはず
喜びであなたの顔に灯をともして
悲しみの跡は見せないで
涙があふれそうになっているのだとしても
こんな時こそ努力しつづけなくちゃいけないんだ
笑ってごらん
泣いていても何も変わらないんだよ
笑っていれば いつかきっとわかる
それでもなお人生は生きるに値するものなのだと』
この「笑って」ってところを「喜んで、祈って、感謝して」に置き換えると丁度今日の聖書になるような気がする。
「喜んでごらん、祈ってごらん、感謝してごらん、たとえ心が痛む時でも、心が張り裂けそうな時でも、不安や悲しみの中でも、喜んで、祈って、感謝すれば、空に雲が垂れ込めている時にも切り抜けることができる、喜んで、祈って、感謝すれば、いつかきっとわかる、それでもなお人生は生きるに値するものなのだと。」って感じかな。
「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」そうすることで神との繋がり、イエスとの繋がりを感じることができる、思い出すことができる、だからそうしなさいと言われているような気がする。祈るということは神との繋がりを持つということだと思う。絶えず祈るということは神との繋がりを絶えず持つということだと思う。
私たちを愛し大事に思ってくれている、お前はお前でいいんだと徹底的に肯定し認めてくれている、そんな神、イエス・キリストと繋がっている、だからこそ私たちは喜び感謝できるし、また喜び祈り感謝することで、この繋がりを確認できる、この繋がりを心で感じることができるということなのではないかと思う。
やってごらん
だからこそパウロは、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、と勧めているのだと思う。そんなこと出来ないという前にやってごらん、そうすれば世界が変わるから、やってごらん、そうすれば違うものが見えてくるから、そう言われているような気がしている。そしてそれは何よりもキリスト・イエスおいて神があなたがたに望んでいることだというのだ。神は私たちとのそんな繋がりをずっと持っていたいと臨んでいるということだと思う。ありがたく嬉しいことだ。
ならば一丁やってみるか、という気になっている。