礼拝メッセージより
「主と共に」 2020年6月28日
聖書:テサロニケの信徒への手紙一 4章13節-5章11節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)
死者
テサロニケの教会の人たちにとって心配なことがあった。それは死んでしまった人たちのことであった。ユダヤ教の書物の中にも、メシアの時が来るときまで生きていられない人たちのことを悲しんでいるものがあるそうで、テサロニケの教会の人たちも先に死んでしまった者たちはどうなってしまうのだろうかという不安があったようだ。
この手紙が書かれたころにはイエスの再臨はもう間近のことと考えられていたようだ。パウロも15節にあるように自分が生きている間にイエスがまた来られると思っていたようだ。テサロニケの教会の人たちもその希望をもっていただろうと思われる。
イエスがもう一度来てくれることを待ち望んでいたが、待ち望みつつその前に死んでしまったらどうなるのかと心配し、実際死んでいく者たちもいたのだと思う。生きている間に再臨があれば大丈夫で、その前に死んでしまうとどうなるんだろうか、墓に葬られたままになるなんだろうか、もしそうだったら心配でたまらない、イエスが来るのが早いか、自分が死ぬのが早いか、なんてことを考え出すと夜も眠れない、そんな思いだったんじゃないかなと思う。
悲しむな
しかしパウロは、イエスが死んで復活されたように、「眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」「神はイエスをとおして、眠った者たちを彼と共に導き出してくださるであろうからである」(岩波訳)という。イエスが復活させられたように、神は眠った者たちをも復活させてくださる、という。だからすでに死んだ者たちのことを神は放っておかれるわけではないのだ、たとえイエスの再臨の前に私たちが死んだとしても同じことだ、だから嘆き悲しむ必要はない、と言う。
主が来られる日
主が来られる日、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られる、と言う。
その時、キリストに結ばれて死んだ人たちがまず最初に復活し、それから私たち生き残っている者が空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる。なんという光景かと思う。
この「引き上げられる」という言葉は、ひったくられる、というような言葉だそうだ。神がひったくっていく、というのだ。神が一方的に連れて行く、一方的に引き上げる、というのだ。
このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになると言う。いつまでも主と共にいるようになるため、またそのためにイエスはまた来られるのだ。
だからその日には、死んでいようと生きていようと、どちらにしても再び来られたイエスと出会い、いつまでもイエスと共にいることになる。だから心配するな。悲しむな。既に眠っている者たちのことも、自分がこれから眠りにつくかもしれないということも心配する必要はない。どちらにしても私たちはいつまでも主と共にいる、主イエスと共にいるようになるのだ、だからその言葉によって励ましあいなさいとパウロは語る。今はいろいろな苦しみ悲しみがあるかもしれない、しかしその日には神が私たちを歓び迎えて下さるのだ、だからその時のことを思い希望を持って生きていこうではないか、と言う。
いつ
続けてパウロは、イエスの来られる日、再臨、主の日がいつであるかということに関して書き記す。それは盗人が夜やってくるように来る、という。福音書や黙示録の中にも終末が突然、思いがけないときにやってくると語られている。いつかは分からない、いつごろかということも分からない、けれどもそれは確実にやってくる、という。
けれどもパウロは、盗人のように突然あなたがたを襲うことはない、と言います。それは、あなたがたが暗闇の中にいるのではなく、光の子、昼の子だからだと言う。
定め
「主は、私たちのために死なれました。それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためなのです。」(10節)
イエスが再び来られるとき、私たちはいつまでも主と共にいるようになると言われていた。そしてそれは、主イエスが私たちのために死んでくださったことによって可能となったことだという。
神が主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定めたから、神が私たちを救おうと決めたから、そのために主イエス・キリストは十字架にかけられ死なれたという。神がそうしようと定めたから、だから私たちは主と共に生きることができるということだ。
ここでは、私たちが目覚めていても眠っていても、つまり生きていても死んでいても、私たちはもうすでに主と共に生きていると言う。
希望
主の日がいつあるのか、どういう形であるのか分からない。パウロが言うように合図の号令がかかるとか、大天使の声が聞こえるとか、ラッパが鳴り響くとか、空中で主に会うとか、文字通りそんなことがあるとはなかなか思えない。
主の日がいつなのかは分からないのに、どうしてパウロにはその時の出来事が分かるんだろうか、どうして知っているんだろうかとも思う。
パウロ自身も初めの頃の手紙だと主の日が自分が生きている間にあると思っていたようだけれど、後の方の手紙だと主の日はそれほどすぐではないかもしれないと言うように変わってきているそうだ。それからもう2000年になるわけだ。正直一体どうなってるんだろうと思う。
4:17「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
5:10「主は、わたちたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」
4章の方だと、主の日になれば主とともにいると言われているようだけれど、5章だともうすでに主と共に生きていると言われているような気がする。
ちょっとした不具合があると、いろいろと余計なことまで心配してしまって、そのことが気になって気分が沈んでしまう。最近スマホの調子が悪くて買い換えないといけないなあと思いつつ、お金かかるなあと思って踏ん切りがつかないまま気にしている。また飼い猫の調子が悪くて病院に連れて行かないといけないかなと思いつつ、最近はコロナの影響で予約取らないと看てくれないみたいだし、またお金かかるなあと思ったりしている。そこにおじが亡くなったと知らせがあって昨日は葬儀に出掛けた。
不具合があれば一つずつ片付ければどうってことないと思うのに、余計な心配をするばかりで気になることが積み重なって、先週はすごく気分が落ち込んでいた。
でも今日の聖書を読んで途端に元気になった、となれば良かったんだけれど、そんなに純粋じゃないしそんなに信仰深くもないので、天から降ってくるなんて言われても、その天はどこにあるんだ?と思っている。
でもなんだかよく分からないけれど、生きていても死んでいても主と共に生きていると聞いて、ちょっと、じわっと、安心できている。
再臨信仰って調べていたら、内村鑑三の名前がいっぱい出て来た。再臨の確信を得て生涯の変革が起こったそうだ。いろいろ見ている中で、内村は完全に絶望したから再臨の確信を得たんじゃないかと書いている人がいた。流石に自分は完全に絶望はしてないなと思った。だから再臨の確信を持ててないのかもしれないし、2000年起こってない再臨に希望を託せる気持ちも分かるような分からないような気分だ。
再臨はあるんだと声高に言う自信はないけれど、でも主と共に生きていることを気付かせてもらったように思う。不具合を心配して落ち込んでいる時には、落ち込んでいる自分の気持ちにしか目が向いていなかったけれど、そんな自分も主と共に生きていると教えられたようで、一つずつ対処していけばいいんだ、一人じゃないんだという気持ちになれたような気がしている。