礼拝メッセージより
会いたい
なんでこんな箇所を選んだんだ、こんな所から語れないぞ、と文句を言いつつ、、、。
「そこで」とは2章17節以下にあることだけれど、パウロがテサロニケの教会の人たちの顔を見たいと節に願っているけれどそれが叶わない状況にある。そこでパウロたちはアテネに残りテモテを遣わしたということだ。そしてそれは苦難に遭っていても動揺することのないように励ましたいという気持ちがあるから、そしてそれはパウロがテサロニケの教会の人たちのことが心配で心配で仕方ないからということのようだ。そして何を心配しているのかというと、5節にあるように「誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦がむだになってしまうのではないかという心配」をしているということだ。
ユダヤ教とは一線を画すことによってユダヤ人からの迫害があったり、皇帝礼拝を免除されていたユダヤ教から離れることでローマ帝国から皇帝礼拝の圧力を受けたり危険な宗教であると見なされたりしていたようだ。そんないろんな苦難がある中でパウロは教会がしっかり立ち続けているかどうかをとても心配している。
喜び
そんな心配をよそに、テモテがテサロニケから戻っては嬉しい知らせを届けてくれたというわけだ。テサロニケの教会の人たちが自分達のことを覚えてくれていたこと、そしてテサロニケの教会の人たちも自分達に会いたいと思ってくれていることを聞いてパウロはとても喜んだと言っている。このテモテの報告をうれしい知らせだ、と言っているけれど、この言葉は福音と訳される言葉だそうだ。テモテの知らせは福音だと言っている。それほどに嬉しい知らせだったということだ。
そしてこの知らせによってパウロ自身が励まされたと言っている。「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。」(7節)
パウロ自身、いろんな所で邪魔されたり迫害されたり、伝道活動も思うように行かないことも多かったみたいで、テモテの知らせは励ましになったんだろうなと思う。
祈り
パウロはそれに続いて三つの祈りを語っている。それは、もう一度顔を合わせて信仰に必要なものを補いたいということと、主が愛で満ちあふれさせてくれるようにということ、そして主の再臨の時に聖なる日のうちどころのない者としてくださるようにということだ。
結ばれて
8節に面白い言葉がある。「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」
生きていると言える、というのはどういうことなのかよく分からないけれど、パウロは自分とテサロニケの教会の人たちの繋がりは、お互いが主にしっかりと結ばれていることによってつながっている、そんな繋がりだと言っているんだろうと思う。
お互いに会いたいと思っているということは勿論嬉しいことだけれど、パウロは自分とテサロニケの教会との繋がりは、ただの人間的な繋がりではない、お互いに主イエスに繋がっている、そんなイエスを通しての繋がりなのだということを言っているようだ。
愛
では主にしっかりと結ばれるということはどういうことなんだろうか。それはイエスの愛を受けるということなのではないかと思う。今日のパウロの祈りの中に、「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」という祈りがある。ついでのように「わたしたちがあなたがを愛しているように」という言葉もあるけれど。
イエスに結ばれるということはイエスからその愛をしっかりと、いっぱい受け取るということなんじゃないのかなと思う。イエスから愛を受け取ることで、イエスにしっかり愛されることで隣人を愛するようになるんだと思う。そんな愛を持ってお互いに会いたいと思っているということを知ってパウロは喜んでいるのだと思う。そう言えば6節では「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。」と書いてあった。
さらに、これは屁理屈かもしれないなと思うけれど、13節の「聖なる、非のうちどころのない者」というのは、完全無欠な人間、傷のない人間、欠点も失敗も間違いもない人間のことじゃなくて、主の愛が豊かに満ちあふれている人間、イエスの愛をたっぷりもらっている、主の愛をいっぱい受け止めている、そんな愛に満たされる人間としてくれるように、ということじゃないかという気がしている。
テサロニケの教会がどんな迫害に遭っていたのか、どんな苦難に遭っていたのか、ユダヤ人たちがどういうことを主張していたのか、それを知りたいと思っているけれどそんな具体的なことはこの手紙には書かれていないみたいだ。勿論迫害や苦難に遭っている当事者に説明する必要もないので書く必要はさらさらないとは思うけれど。
でもパウロが一番心配しているのはやっぱり、テサロニケの教会が神の愛から、キリストの愛から離れてしまうこと、離されてしまうことだったんじゃないかと思う。
福音書を読んで思うことは、イエスはやっぱり何よりも愛を伝えてくれたということだ。神の愛を私たちに教えてくれたと思う。神が私たちを愛してくれていること、全面的に受け止めてくれていること、徹底的に肯定してくれているということ、そして徹底的に赦してくれていること、イエスはそのことを私たちに伝えてくれたんだと思う。
パウロはそのことを知ったからこうやって伝道旅行に出て行ったんだろうと思う。かつては教会を迫害して捕まえて処刑する側だったパウロだ。イエスを否定し真っ向から反対する側だった。しかしそんあ自分さえも徹底的に赦して受け止めて肯定してくれる、パウロはそんな神の大きな愛をイエスを通して知ったんだと思う。そしてそれがパウロの原動力だったんだと思うし、パウロはその神の愛を伝えたかったんだと思う。
テサロニケに滞在したのは短い期間だったそうだけれど、教会がその愛にしっかり根ざしていたことをパウロは喜んでいるんだろうなと思う。そしてその愛をもっともっと伝えたいという気持ちを持っているじゃないかなと思う。
ローマの信徒への手紙
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
私たちも実は神の愛の大きさをまだまだ知らないのかもしれないという気がしている。だからこそもっともっと知りたいと思う。
聖書は神からのラブレターだ、って聞くことがある。昔はくさい言葉だなと思っていたけれど最近は本当にそうだなと思う。聖書には神の愛が詰まっているような気がしている。ヘビ花火を思い出した。愛に気が付くと(火が付くと)もこもこ湧き上がってくるんじゃないかな。その神の愛に満たされて生きていきたいと思う。