礼拝メッセージより
軌道修正
軌道を修正するって事は大変なことだ。宇宙に関するテレビをよく見る。昔アポロ13号が月に向かっているときに酸素タンクが爆発して、それでも何とか地球に帰還させたという番組を見たことがある。映画にもなった。その時に軌道を修正するのに、エンジンをどの向きのエンジンを何秒間噴射したらいいかということを検討するのに長い時間をかけて地球でシミュレーションして、その仕方を確認して決めてたと言っていた。車の軌道を直すのはハンドルを回せばすむけれど、宇宙船だとエンジンを噴射する度にその反動で船の向きも変わってしまうということだった。宇宙では軌道を修正するのはそんなに大変なんだと思った。
汚れた物
今日の箇所では言わばペトロの軌道修正の話しが出て来ている。神に幻を見せられて考えを変えさせられたという話しだ。
ユダヤ人たちは汚れたものを食べてはいけないと教えられてきて、そのことを当たり前に守ってきたようだ。その根拠となることが、レビ記11章に書かれている。
『 11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。』
この後は水中の生き物や鳥やいろいろな動物についても何が汚れているかということが書かれている。何を食べていいか、何を食べてはいけないかということが書かれている。
ユダヤ人たちは律法が神からの命令であり、それを守ることが神を信じることである、律法に背くことは神から見捨てられる、神の祝福から漏れてしまうと思っているようで、ペトロもそう思って生きてきたことだろう。食べ物にしろ人間にしろ、汚れたものには近づかないようにしていたようだ。
ところがペトロはその汚れた物を食べろと幻で告げられてしまう。それはとてもショックなこと、衝撃的なことだったに違いない。生き方を変えろと言われるようなことだったんだと思う。そうですかと簡単に言えることではなかったようだ。
ペトロも、幻の中で、屠って食べなさいという声に対して3度拒否したと書かれている。天からの声が聞こえてるのに、それに対して3度拒否したというわけだ。
お告げ?
今日の聖書ではペトロはまるで目の前にスクリーンが登場して、映画でも見たかのように書いてあるけれど実際はどうなんだろうか。我を忘れたようになって見た幻ということは、うとうとして眠くなって見た夢だったのかなと思う。
夢でも幻でも、こんな風に神様からのお告げがあればいいのに、これはこうしなさいと教えてくれたらいいのにという気もする。でも自分がなかなか出来ないことや、したくないことをしなさいと言われてしまうと、それはそれで辛いなあと思う。嫌いな人と仲良くしろとか、赦せない相手を赦せと言われても、素直に「はいそうします」とはなかなか言えないなあと思う。
ペトロはここでもユダヤ人の習慣を守っている。12時に祈るというのはユダヤ人としてずっと守ってきた習慣だ。ユダヤ人としての生き方が染みついているのだろう。そんな時に見せられた幻なんだろうと思う。
ペトロはカイサリアにいるコルネリウスという信仰心のあつい異邦人が、神に幻で告げられて自分の所に使者を送って自分を招いていること、そしてその招きに応えてカイサリアに赴き福音と告げていると、異邦人も聖霊が注がれるということを体験されられることになった。
ユダヤ人たちは、神が用いられるのはユダヤ人のみであり、他の国民、つまり異邦人は全く神の恵みと特権には与れないと信じていたいそうだ。厳格なユダヤ人は、異邦人と全く接触しないだけではなく、ユダヤ人であっても律法を守っていない人とは接触しなかったそうだ。律法を守らない人を客に迎えることも、自分がその人の客になることもなかったそうだ。
そんな思いの中で生きてきていたペトロにとって、異邦人にも聖霊が降るというのは衝撃的な出来事だったんだろうと思う。
ペトロは、決して神は人を分け隔てしないと理解したから異邦人の元へ行ったわけではなかった。神に強引に背中を押されて異邦人の元へ行き、そこで神が人を分け隔てしない現実を見せられたわけだ。
ペトロはそれから少しずつこの出来事を理解していったのではないかと思う。この出来事を通してペトロは改めてイエスの生き様を思い返したんじゃないかなと想像する。そんな出来事を通して律法に対して語ったイエスの言葉や、差別されていた人達と共に生きたイエスの生き様を思い返し、その意味がこういう出来事を通して初めて少しずつ分かってきたんじゃないかなと思う。
それでもパウロの手紙には、エルサレム教会から人がやってくるとペトロが異邦人と一緒に食事をするのとやめてしまったなんて書いてあって、人間てのはなかなか一筋縄ではいなかいなあと思う。
そう思うと人生の軌道修正って簡単なものではないだろう。聖書に書いてあるから、イエスが言われているからと言ってもそう簡単には変えられない、そういうことがいろいろあるんだろうなと思う。悩みつつ、考えつつ、少しずつ修正していくしかないのだろう。そしてそうやって少しずつ変わっていくものこそが本物でもあるのだと思う。
そうじゃない
人間って色んな人の声を聞いて生きている。ペトロが律法が大事だと聞かされてきたように私たちも、こういう風に生きなきゃだめです、これを大事にしてしないといけません、こうしなさい、これはだめですといろいろと聞かされている。
或いはお前は駄目だ、それでは駄目だなんてことを聞かされることもある。
僕は牧師になって初めての結婚式をすることになった時に、その話しを聞いたうちの親父が「ちゃんと出来るんか?」と言ったことがあった。それを聞いて、そう言えば小さい頃からいつもそんな風に言われてきたなと思った。それでは駄目だ、これはこうした方が良かった、大概そんな風に言われてきたように思う。よく出来たという風に自分を認められたという記憶がないことに気が付いた。そのせいなのかどうかわからないけれど未だに何をやっても基本的に自信がないし、いつも誰かから批判されるんじゃないかという恐れを持っている。
親だけではなく、いろんな誰かの声に縛られ苦しめられているように思う。
そんな私たちを苦しめる誰かの声に縛られるのではなく、神の声を、イエスの声を聞いていくこと、それが私たちの軌道修正なのだろう。軌道を修正し向きを変えるってことは、別の言い方をすれば悔い改めだなと思う。悔い改めに必要なのはイエスの言葉なんだろうなと思う。
駄目だ、駄目だという心の中の声はなかなかなくならない。時にそんな声に縛られてしまう。リーダーシップもないし、決断力もないし、教会を大きくすることもできないし、稼ぎも悪いし、、そんな思いに押しつぶされそうになる。
でもそんな時に、そうじゃない、お前は駄目じゃない、お前はお前でいいんだ、そんなお前が大事だ、そんなお前が大切だ、僕は聖書からイエスのそんな声を聞いている。
自分を苦しめる言葉は消えないけれど、それよりもイエスの声をしっかりと聞いていきたいと思う。
そしてこのままのこの自分を大事に思ってくれているイエスに倣って、隣人をそのままに大事にしていきたいと思う。