礼拝メッセージより
いやし
昔教会に「癒しに興味がある人がいるんですが、そちらの教会は癒しをしてますか。どこか癒しをしている教会を知りませんか。」という電話があった。
足の不自由な男
神殿に生まれながら足が不自由な男がいた。彼は「美しい門」のそばに運ばれてきたと書かれている。まるで荷物かなにかのような言われ方だ。実際社会のお荷物のように思われていて、荷物のような扱いを受けていたということかもしれない。まっとうなひとりの人間として見られてはいなかったのだろう。
彼は神殿の門のそばで施しを受けることが日課だったのだろう。通り過ぎる人たちから小銭をもらって生きていたのだろう。施しを与えることは、ユダヤ教では祈りと共に敬虔な行為とされているそうで、神殿の入り口では施しを受けやすかったのだろう。
ペトロとヨハネが午後3時の祈りの時間に神殿に上っていった時だった。
9時、12時、3時が祈りの時間だったそうだ。使徒たちもユダヤ教の祈りの時間を守っていた。教会は当初はユダヤ教と対決する姿勢は持ってはいなかったようだ。
そのペトロとヨハネが境内に入ろうとすると、足の不自由な男が施しを求めた。何もしないでそのまま通り過ぎるか、あるいは小銭を出すか、どちらにしても黙ってすぐその場からいなくなるのが普通だと思うけれど、ペトロたちは立ち止まって男に語り掛けた。
見なさい
ペトロは「私たちを見なさい」と言った。この男の人がどういう姿勢だったのかは分からないけれど、行き交う人の足しか見えていなかったのかなと思った。男は何かもらえると思って二人を見つめた、と書いてあるけれども、そこで初めて視線が合ったんじゃないかと思う。
ただお金を置いていくだけならば視線が合うことはあまりないだろう。でもペトロは「見なさい」と言う事で視線を合わせたのだろう。ペトロはただ施しをする側とされる側という関係ではなく、人間的な関係を持とうとしたのではないかと思う。お互いの間を、ただお金が行き来する関係ではなく、心が行き来する関係を持とうとしているのではないか。
男の前を通りすぎる人たちにとって、この男はひとりの人間というよりも社会のお荷物という気持ちがあったのではないかと思う。施しをするにしても、自分がよい事をして満足するための相手というような存在でしかなかったのだろう。逆にこの男にとっても、目の前を通り過ぎる人たちはただ自分に施しをしてくれる相手、金や物を運んでくる道具でしかなかったのかもしれない。
しかしペトロはそんな関係ではない、人間と人間としての関係を持とうとしているようだ。
イエスの名によって
ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言い、右手を取って彼を立ち上がらせた。
人々は、彼を一人の人とは扱わずに、門の前に「置かれている」物のように扱っていた。そしてこの男の人自身も、どうせ自分はお荷物なんだと思ったいたんじゃないかと思う。今更人間らしく生きるなんてこともできない、そんなことよりお金でも物でも、それさえもらえればいいと思っていたんじゃないかと思う。毎日をただ施しを受けるだけという境遇が、どんどん自分自身を惨めにしていって、荷物のように生きていくしかないのだ、というようなあきらめの気持ちでいたじゃないかと思う。
環境が人間に与える影響の実験だったかな、そんな話しを聞いたことがある。学生に刑務所の看守と囚人の役割を演じさせたところ、何日かすると看守役はだんだん狂暴になり、囚人役はだんだんと卑屈になっていってしまい、当初予定していた日数まで実験できなかった、と聞いた事がある。お互いに役だと分かっているのに、それを演じているだけでそうなってしまうのだそうだ。
この男の人は4章22節を見ると、40歳を過ぎていたと書かれている。生まれてから40年以上、お荷物のように扱われてきたということなんだろうと思う。苦しい境遇で、生まれてから40年もの間まともな人間として接してもらっていないとすれば、いつもお荷物のように見られていたとすれば、この男の人の気持ちはどんなだったのだろうか。
いやし
男は不自由だった足が癒され、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し」たと書いてある。
不自由だった足が自由になったんだから嬉しいに決まっている。勝手な想像だけれど、きっとそれだけではなく、自分を苦しめていた重荷から解放された喜びと、それまで自分の人生をあきらめていた、その心に希望が生まれたこと、それこそが嬉しかったのではないかと思う。
足が不自由である事から、あいつは神の祝福からもれているとか、親か先祖か誰かが悪い事をしたからその所為で立てなくなっているとか言われ、また自分でもそう思って苦しんできたのだろう。そんな社会や周りの人間から受ける苦しみから解放されたという喜びがあるから彼は躍り上がって喜んでいるのではないかと思う。
立てなかった者が立てるようになる、それはすごい事だ。そんなことがあったら。僕もそんなことができたらいいなあ、と思う。教会に来れば癒されます、と言えばもっともっと大勢の人が教会に来るかもしれない。教会の宣伝もしやすくなるかもしれない。イエス・キリストの名によって立ち上がれ、とか見えるようになれ、聞こえるようになれ、と祈ってそうなったらいいなあ、なんて思う。
この男がここに書かれているようにペトロの一言ですぐに癒されたのかよく分からない。今でもイエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい、と言ったら癒されるんだろうか。言ったこともないし言う自信もない。信仰心があれば言えるんだろうか。現代ではお医者さんが治療してくれるから神様は人間に出来ることに手出しはしないなんて話しも聞いたことがあるけれどどうなんだろうか。
お荷物なんかじゃない
もちろん不自由な足がよくなることはすごいことだけれど、実はそれ以上にこの男の人にとっては自分が一人の人としてしっかりと見られること、ちゃんと目と目を合わせて見つめてくれる人がいること、そのことの方がもっとすごいことだったんじゃないかという気がしている。
つまり一人の大切な人間として扱われることが大事な事だったのではないかと思う。かつてはお荷物として扱われていた。自分でもそう思っていた。そんな自分をちゃんとした一人の人間として見つめる者がいた、そのことこそが彼にとってのいやしだったのではないか。自分はお荷物ではない、ということに気付いたこと、それこそが彼にとって一番大事ないやしだったんじゃないかと思う。足がよくなって歩ける人間になっただけではなく、イエス・キリストに大切に思われ愛されている者であることを知った、それこそが大事なことだったんじゃないかと思う。
何よりもペトロたち自身が、失敗したり間違ったりばかりの自分をイエス・キリストが大切に思ってくれていること、愛してくれていることを知らされてきていたから、そしてイエス・キリストがいつもしっかりと見つめてくれていることを知っているから、だからこの男の人にもそのことを伝えたのだろうと思う。あなたは決してお荷物なんかじゃない、イエス・キリストはあなたのことを大切に思っていると伝えたんだろうと思う。それをギュッと縮めたのが「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」という言葉になってるんじゃないかなと思う。こじつけかもしれないけれど。
そうするとこの言葉は自分に向けた言葉でもあるように思う。
いろんな活動をしている牧師の話しを聞いたりすると、すごいなあと思うし同時に何もする知恵も気力もない自分はなんて駄目なんだろうと思ってしまう。立派な人の話しを聞いても、自分もそれに倣って頑張ろうと思うことなんてまずなくて、やっぱり自分は駄目だなと思ってしまう。実は教会の役にも立ってないし社会の役にも立ってないし、ただの金食い虫なんじゃないかなんて思ってしまう。
そうやって自分で自分を責めることが多いけれど、でもそんな自分にもイエス・キリストは、お前はお荷物じゃない、大丈夫だ、私が付いている、だから安心して生きなさい、そう言ってくれているように思う。ように思うというかそんな言葉をずっと聞いてきてたなと今更思い出している。
このイエス・キリストの言葉をもっともっとしっかりと聞いていきたいと思う。そこにこそ私たちが立ち上がる力が湧いてくるのだと思う。