礼拝メッセージより
使徒言行録
使徒言行録は、ルカによる福音書の続編として、医者ルカによって書かれたものである。最初に「テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して」とあるが、この「第1巻」は、ルカによる福音書のことだ。使徒言行録の使徒というのは、イエスの12弟子とパウロを指している。もっとも、実際に登場するのは、前半はペテロ、後半はパウロが主で、他の弟子たちはあまり出てこない。このペテロとパウロの言った事と行ったこと、つまり、キリストの福音を各地に伝えたことの記録が使徒言行録である。口語訳では使徒行伝という名前になっている。
使徒言行録は、使徒たちによって福音がエルサレムから異邦人世界に伝えられ、ついにその当時の中心地ローマにまで、伝えられたことを述べている。そしてその使徒たちは見えない神の力、つまり聖霊によって支えられ力付けられたことが強調されている。
約束
「1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」
「苦難を受けた」というのはもちろん十字架の死のことである。その後「彼らに現れ」たと言われている。そして、イエスが彼らに現れた目的は、「神の国について語る」ことであった。
「1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」
この「約束」というのは、5節にあるように、聖霊のことである。イエスは、ここで弟子たちに、エルサレムで聖霊が与えられるのを待ちなさい、もうすぐ聖霊によるバプテスマを授けられるからと言っている。
しかし弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と随分筋違いなことを聞いている。ユダヤ人たちは救い主が自分達の国を再び強い国にしてくれるという期待を持っていたようで、弟子たちは依然としてイエスにそれを期待していたようだ。
それに対するイエスの答えは「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」であった。
そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と告げている。
イスラエルの国を建て直すかどうかは神が決めることであって、そのことに関心を寄せる必要はない。そんなことよりもやがてあなたたちの上に聖霊が降り、ユダヤだけじゃなくサマリアでも、そして地の果てに至るまでわたしの証人となる、わたしの証人となることこそがあなたたちの務めなのだと告げているようだ。
昇天
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
復活のイエスが今度はみんなが見ている中で天に上げられて雲の中に入っていってた見えなくなった。弟子たちがずっと上を見ていると、そこに天使が現れてイエスはまた来ると告げたという。
ここは使徒言行録が書かれた時代の宇宙観が反映されている。当時は地球は丸いなんてことも分かってなくて、地は真っ平らで空には太陽は星の通り道があって、その上の方に神の国はがあると考えられていたようだ。だからこういう書き方になっているのだと思う。今の宇宙観からするとイエスはどこに昇っていったのか、どの辺りまで行ったのかなんて気になってしまう。
ここで言うイエスが天にあげられたというのは、物理的に宇宙のどこかに天という場所があってそこにイエスが帰っていったということではなく、栄光の神の地位へと戻っていったというようなことなんだろうと思う。
喪失感?
ここに書かれているように実際に目の前でイエスが天にあげられたとしたら弟子たちはどう思うんだろうか。ルカは福音書の最後にも同じようなことを書いてあって、そこでは弟子たちは「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」と書いてある。しかし今日の箇所では弟子たちはずっと上を見上げていると書かれている。呆然と上を見ているような気がする。
イエスの十字架を目の当たりにして弟子たちはショックを受け、でもイエスの復活を知って喜んだ、なのに今度はイエスは天に引き上げられてしまったというわけだ。折角また会えたのにまた引き裂かれたらショックで立ち直れなくなってしまいそうな気がするけれど、そんなことはないのかなあ。
なる
それはさておき、聖霊が降ると弟子たちはイエスの証人となると言われている。今日の箇所は使徒言行録のプロローグのようで、この後弟子たちが証人として世界に出て行ったことが書かれている。
面白いことに、「証人となる」と言われているのであって、「証人になれ」とは言われていない。証人になるのが当然のことであって、そうなるともう既に決まっていると言っているみたいだ。証人にならないなんてことはありえないと言わんばかりだ。
聖書には裁判で使うような言葉がよく出てくるけれど、弟子たちも、そして私たちもは証人になるのであって、弁護人になるわけではない。弁護人はその人を守るために検察と対決をしないといけないわけだけれど、証人とは自分の知っていることをその通りに話せば言い訳だ。知らないことは知らない、分からないことは分からないと言ってもいいし、そうやって正直に言うことが証人にとって大事なことなんだろうと思う。
キリスト教のことや教会のことを教えてくださいなんて言われると、あまり知りもしないのについつい分かったような顔をして適当なことを答えてしまうことがあるけれど、でも本当はそれはいい証人ではないということになるのだろう。
自分にとって神とは、キリストとはこういう方だ、自分にとって信じるとはこういうことだ、それを正直に伝えること、それが証人の務めなんだろうと思う。そして苦しい時は苦しいと言い、悲しい時は悲しいと言う、辛い時は辛いと言う、憎い時は憎いと言う、それでいいんじゃないかと思う。クリスチャンのくせに、と言われたらクリスチャンのくせにそうなんですと言う、それこそが証人なんだろうと思う。
そんなこと言って大丈夫だろうか、変な目で見られないだろうかと心配になる。でもそんな私たちを聖霊という形で神は支えてくれているというのだ。
大丈夫だ、心配するな、私はいつも共にいると言われているのだと思う。こんな自分だけど、こんなだらしない自分だけど、でもこの自分が神の支えによって生かされている、そのことを伝えることが証人となるということなんだろうと思う。
私たちはそんな証人なのだ、聖霊の支えによって私たちはイエスの証人として生きている、生かされている、ルカはそう言っているように思う。