礼拝メッセージより
復活
復活ってどういうことなんだろうか。かつては素直にというか単純に聖書に書いてあるようにイエスが生き返ったのだと思っていた。墓の中に寝かされていたイエスがむくむくと起き上がってきたというようなイメージだった。
よく見ると聖書にはいろんなことが書かれている。食事をしたとか、十字架の後を触ってみろとか、肉体があるようなことが書かれていたりするかと思うと、
戸締まりをしている家に入ってきたり、食事中に急に消えてみたりというふうに肉体を持たない、まるで幽霊のような感じで書かれていたりもする。そんなこと
本当にあるのかとか、その時肉体はどうなっていたのかとか、実際どうだったんだろうかと疑問に思うのが普通だと思うけれど、なるべく深く考えないようにし
てきた。
復活とはこういうことですという答が知りたくて、何年か前に買ったのが『私にとって「復活」とは』という本だ。十数人の人が復活について書いてある本
だ。復活とはこういうことでし、イースターにはこんなことがありました、と明確な答えが欲しかったけれど、そんな答は見つけられなかった。だいぶ経ってか
ら本の題名が『私にとって「復活」とは』とあるように、どうも復活とはその人その人にとって違ってくるものであるらしいということに気が付いた。復活とは
こういうことですよ、と物理法則のように万人がみんな共通して認識したり理解したりできるようなことではないらしいということに気が付いた。
師匠であったイエスが十字架で処刑されてしまった。結構的外れな期待をしていた弟子たちだったけれども、少なくともイエスに魅力を感じて、人生を託して
ついてきていた弟子たちだった。社会を変える、新しい何かが始まる、そんな期待をしてきていたであろう弟子たちにとって、そのイエスの十字架は突然未来が
断ち切られたようなショックな出来事であった。しかも自分達の先生が犯罪人として処刑されてしまい、自分達も犯罪人の弟子となるという危ない立場に立たさ
れてしまってもいる。聖書には男の弟子たちは十字架を前にしてみんな逃げたと書かれている。イエスの十字架を前にして、将来に抱いていたであろう淡い期待
も消えてしまい、しかも自分達にも身の危険が迫るという状態だった。
そんな絶望的な状況であった弟子たちが、その後イエスこそがキリストであると堂々と伝え始めたと書かれている。その原動力は復活のイエスとの出会いだったということを聖書は伝えているようだ。
ヨハネによる福音書の21章は後から付け加えられた物語だと言われているそうだ。実際20章最後には「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエ
スは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」というふうに最後のまとめの文章となっている。
それに続けて後々付け加えられたのがこの21章ということだ。
弟子たちがティベリアス湖で、夜通し漁をしてみたが彼らは何も取れなかった。しかし朝になってイエスが船の右側に網を打てと言うのでその通りにすると大
漁になったと書かれている。あまりに多くて網を引き上げることができなかったが無事に岸まで引っ張ってきて陸に引き上げることが出来た。網の中には153
匹の大きな魚がいたが、網は破れてはいなかった。その後イエスと一緒に食事をした、そんな話しだ。
ティベリアス湖とはガリラヤ湖のことで、湖畔にローマ皇帝のティベリアスの名前から名付けた町があって、湖もその名前にちなんでティベリアス湖と呼ぶこともあったそうだ。
例によってちょっと不思議に思うこともある。
ここで復活のイエスと会うのがもう3回目だと書かれているけれど、最初弟子たちがまたしてもイエスだと分からなかったというのはどうしてなんだろうか。
またイエスが「何か食べる物はあるか」と聞いて、弟子たちが「ありません」と答えたあと「船の右側に網を打ちなさい」と言っている。食べる物を採るために
網を打っているように思うけれど、弟子たちが陸に上がってみると炭火の上には魚がのせてあってパンもあったと書かれている。
捕れた魚が153匹と書かれていて、最初は気にも留めてなかったけれど、よく考えると何でここにこんな具体的な数字があるのか不思議だなと思う。数えた?。
このヨハネによる福音書がまとめられた頃は、教会はユダヤ教徒やローマ帝国の迫害に苦しんでいた時期だったそうだ。その彼らに対する励ましとしてこの21章が書かれたようだ。
敢えて皇帝にちなんだティベリアス湖という名前を出して、ローマ帝国の支配にある中にいる教会の人たちが、自分たちに力だけでは何も取れなかったとしても、イエスの言葉に従うことで大漁になる、大きな成果を得ることができるということを伝えているんだろうと思う。
そしてこの153匹の魚について、153というのは適当に思いついた数かと思っていたけれど、どうもこれは象徴的な数字のようだ。
一説には、当時知られてい魚の種類が153種類だったのではないかという説もある。別の面白い説がある。153というのは、1+2+3+4+5+・・・
と足していって17まで足した数なんだそうだ。三角数というらしいけれど、ボーリングのピンのように1列目に1本、2列目に2本、3列目に3本という風に
三角形に並べる。ボーリングは4列目まで並べでいて全部で10本になるが、それを17列まで並べると丁度153本になる。153匹の魚というのは17列ま
で綺麗に並んだ三角数ということで、イエスのわざは完全だというようなことを言おうとしているという説だ。聖書には結構数字に意味を持たせているようなと
ころがあった面白い。
やってみなさい
人生は思うようにいかないこと、上手くいかないことが多い。今日の聖書の弟子たちが一晩中漁をしたのに何も採れなかったようなことが多い。今もウイルスの脅威にさらされて疲れ果てている。
しかしイエスは見えないけれどもいつも一緒にいてくれている。
今年はイエスが後にいてくれているような気がしている。どこにいるのか分からないと思う時、、本当に一緒にいてくれているのかも分からないと思うような
時、そんな時でも、一緒にいてくれていると信じられない時でも、イエスは私たちの見えない所でしっかりといてくれているのだと思う。
そしてなかなかうまくいかない時にも、何をやっても成果が見えないで疲れ果ててしまっているような時にも、もう一度やってみなさい、大丈夫もう一回やってみなさいと私たちを励ましてくれているのだと思う。