礼拝メッセージより
失望
イエスが処刑された次の日曜日、その日の朝イエスは復活してマグダラのマリアに現れて、今日の箇所のすぐ前の18節では、マリアはそれを弟子たちに告げたと書いてある。
でもその日の夕方、まるでマリアの話しを聞いてないかのように、弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸には鍵をかけていたという。師匠であるイエスの処刑に弟子たちは打ちのめされていたようだ。次は自分たちにも同じような運命が待ち構えているかもしれないという恐怖におののいているようだ。
恐怖だけではなく、いろんなことに失望していたに違いない。彼らは3年間イエスに従ってきた。イエスに希望を託し、自分の仕事を捨て人生を掛けて従ってきた。しかしそんな命を掛けて従っていたはずのイエスは十字架で処刑され、しかも自分達は師匠に最後までついて行くことも出来ずに見捨ててしまったのだ。
どこまでもイエスについていけたならば、痛い眼に遭うかもしれないけれど、納得もできただろう。しかし弟子たちはそれができなかった。どこまでも自分の信念と貫いていけたらいいけれどなかなかそうはできない、人間てのは誰でもがそんな弱さを持っているのではないかと思う。弟子たちは将来の希望を失うと同時に、自分たちの不甲斐なさや弱さを思い知らされていたんだろうと思う。
しかしそんな中にイエスが現れたというのだ。打ちのめされ、打ちひしがれている弟子たちの中にイエスの方から近づいてきたというのだ。そして、あなたがたに平和があるように、と言ったという。これはシャロームという普通の挨拶だそうだ。
家の戸に鍵をかけ、何者をも寄せつけないようにしていた弟子たちだった。彼らは自分達の心にも同じように鍵を掛け、誰も寄せ付けない、誰の励ましも慰めも聞けない、そんな状態だったのではないかと思う。
そんな中にイエスは現れた。イエスは弟子たちを責めにきたのでもなく、叱りにきたのでもなく、裁きに来たのでもなかった。平和を、平安を与えるために来たのだ。そしてそのイエスに会うことで弟子たちは喜んだ。
疑い
12弟子のひとり、ディディモと呼ばれるトマスはその時そこにいなかったという。トマスは最初の日にイエスが弟子たちの所に来られた時には一緒にいなかった。そして他の弟子たちからイエスを見た、と聞いても信じなかった。釘跡に指を入れて、わき腹に手を入れてみないと信じないと言ったというのだ。
トマスは疑い深いのだろうか。よくそんな言われ方をするが。そうかもしれないがとても堅実なのではないかという気がする。私たちは周りの声にすぐに踊らされてしまうことが多いがトマスは自分でそれを確かめないと信じないと言う。
そのトマスが一緒にいる時にイエスはまた弟子達のところへ来られた。そしてトマスに、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じるものになりなさい、と言う。トマスは、わたしの主、わたしの神よ、という。イエスは最初そこにいなかったトマスのためにまた現れたということなんだろうと思う。十字架に付けられた姿のイエスが、傷を負った姿のイエスがトマスにも現れた。福音書をよく見ると、イエスは最初に弟子達に現れた時にも手とわき腹とを見せたと書かれている。トマスは指を釘跡に入れないと、手をわき腹に入れないと信じないと言っていた言葉に反して、そんなことをしたとは書かれていない。イエスと会ったことで、そんなことはどうでもよくなったかのようだ。
トマスにとってもイエスが復活されたという知らせは喜ばしい出来事だったのではないかと思う。それが本当ならばどれほどうれしいことかという思いはあったのではないか。だからこそ余計にそれが本当なのかどうかを確かめようとしているのだと思う。
大事なことだから自分でしっかりと確かめないではいられない、そんな心境だったのではないだろうか。だから敢えて強い調子で、釘跡に指を入れ、わき腹に手を入れないと信じない、なんてことを言ったのではないかと思う。ただ単に疑い深いとか不信仰だからというわけではないような気がする。それだけトマスにとっては大切な重大な問題であった、いい加減では済まされない問題であったということだったのだろう。だからトマスが復活のイエスと出会って、わたしの主、私の神よ、と言った言葉もとても真剣な言葉だったのではないか。そしてまたそれはきっと喜びの言葉だったのではないか。復活のイエスと出会ったという喜びは誰にも負けない位大きかったのだろうと思う。
見ないで
復活とは一体何なのだろう。イエスはどんな姿で復活したのだろう。よくわからない。蘇生とは違うという人がいた。死んだ人が息を吹き返すというようなこととは違うということだ。死んだ肉体がもう一度生きるようになったということとは違うように思う。
復活とは心の中にイエスが生まれること、弟子たちにとっては心の中にイエスがよみがえること、それが聖書の伝える復活だったのではないかと思う。
私たちの心の中にイエスが生まれるからこそ、私たちはどこにいても、どんなときでも、いつまでもイエスと一緒にいることができる。
弟子たちはその後堂々とイエスを伝えるようになった。イエスがキリストであること、自分達はその弟子であることをみんなの前で話すようになった。彼らにいったい何が起こったのだろうか。
弟子たちは復活のイエスと心の中でしっかりと出会ったのだろう。きっと心の目で見えるような、そんな出会いだったのではないかと思う。そこで失意のどん底にあった弟子たちは元気になっていった。
イエスの遺体が蘇生して生き返ったとしても、私たちはそのイエスを見ることはできない。しかし心の中でイエスと会えるということならば、私たちも会うことが出来る。私たちの心の中にイエスが生まれる、心の中でイエスと出会う、それがイエスの復活なのではないかと思う。そして弟子たちもそんな形でイエスと出会ったんじゃないかなと思っている。彼らは生前のイエスを実際に見ていたからその出会いはとても鮮明な出会いだったんじゃないかなと思う。
見ないで信じる人は幸いだと書かれている。
そう言われても私たちにとっては見ないで信じるしか術はない。しかしイエスとの出会いとは見えない出会いでしかなくて、見えなくても十分な出会いなのだということだと思う。
復活のイエスがマグダラのマリアに後から声をかけたように、イエスは私たちが気付いていない時にも、見えない所にいてくれている、いつもどんな時にも一緒にいてくれているということだ。