礼拝メッセージより
復活
20章はイエスの復活のことが書かれている。
1節では「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」とある。
週の初めの日とは日曜日のことで、イエスが日曜日に復活したということでほとんどのキリスト教会では日曜日に礼拝している。イエスが十字架に掛けられたのは金曜日でその日の夕方に埋葬されたことが19章に書かれている。ユダヤでは日没に一日が終わりそこから新しい日が始まるそうだ。夕方に埋葬されて日没になると次の日が始まる。次の日、つまり土曜日が始める訳だけれど、ユダヤでは土曜日は安息日であって労働してはいけないと律法に決められていて外出することもままならなかったようだ。ただ静かに祈って何もしない安息日を挟んで、日没になると週の初めの日である日曜日が始まる。けれどもすぐに暗くなるので朝早くになってからマリアは墓へと行ったということになる。
墓は洞窟のようなところに遺体を納めて入り口を大きな石で塞いでいたそうだけれど、マリアが墓に行ってみるとその石が取りのけてあったと書いてある。そこでシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ知らせに行ったと言うのだ。
ちょっと不思議に思うことがある。入り口の石が取りのけてあったんならどうして中を覗かなかったんだろうか。弟子たちに「主が墓から取り去られました」と言っているけれど、中を覗かなかったのにどうして分かったんだろうか。それともただ福音書が中を覗いたことを省略しただけなんだろうか。それと「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言っているけれど、私たちとは誰のことなんだろうか。見に行ったのはマリア一人だけのはずだけれど。
その後ペトロともう一人の弟子が墓へ行って、中に入ると亜麻布と頭を包んでいた覆いを見たと書いてある。8節では「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」と書いてあるけれど、何を信じたんだろうか。イエスが復活したということを信じたんだろうか。でも9節ではイエスが復活されることになっているという聖書の言葉をまだ理解していなかったと書いている。それともマリアが告げた、主が墓から取り去られた、という言葉を信じたということなんだろうか。でもそれを信じるというのもなんだか変だなという気もする。
そしてそれから二人の弟子たちは家に帰っていったけれどもマリアは墓の外に立って泣いていたという。弟子たちに知らせたマリアはまた墓に戻ってきて、弟子たちが帰ったあと初めて墓の中を見たことになる。
そこで二人の天使と話をして、主が取り去られました、なんて言いながら後を振り向くとイエスが立っていた。最初はイエスと分からず園丁だと思っていた、イエスが「マリア」と呼ばれると、マリアは振り向いて「先生」と言って縋り付いた、そして弟子たちへの伝言を頼まれ、マリアは弟子たちのところへ言って主を見たと告げて、イエスの伝言を伝えたという話しだ。
ここもちょっと不思議だ。マリアは天使たちと話しながら振り返るとイエスがいて、今度はイエスと話しをしている。でもイエスと話しをしつつ、イエスが「マリア」と言うとまた振り向いて「先生」と言ったという。どうなってるんだろうか。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言ったと書いてあるけれど、その時はどこを見ていたんだろうか。普通は相手を見て話すような気がするけれどそうじゃないんだろうか。それとも涙を流しながら下を向いて話してたんだろうか。
そんなことをあまり詮索しても仕方ないのかもしれないけれど、そんなことを考えながら読んでいると聖書もなかなか結構面白い。
うしろに
聖書には四つの福音書があって結構違うことが書いてある。復活についても結構違うことが書いてあって、実際にどんなことが起こったのかというのははっきりとはしない。
でも大事なのは、イエスがその時本当に物理的に生き返ったかどうか、どのように生き返ったのかということよりも、今私たちがイエスと出会うかどうかだと思う。勿論今ここにイエスが目に見える形で現れて会うなんてことはないと思うけれど、そうなったら嬉しいけれどそんなことはないだろう。けれどそんな目に見え手で触れるような出会いでなくても、言わば心で出会うことが大切なことなのだと思う。
たとえ死人が生き返ったとしても、心で出会わなければ、つまりその出会いによって力付けられたり慰められたり励まされたりすることがないならば、ただ不思議なことがあったんだということで終わってしまう。心で出会うことこそが大事なのだ。
絶望
かつてイエスに従っていた弟子たちはイエスに期待をかけていた。イエスが世の中を変えてくれる、自分達の国を建て直してくれる、そんな希望を持って自分の人生をかけてついて行っていたようだ。命をかけてイエスについていくと思っていた者もいたようだ。しかしイエスは時の権力者に捕まり十字架で処刑されてしまった。自分の人生の師匠とあがめていた人が重罪人と同様に、十字架という惨めなむごたらしい方法で処刑されてしまった。
弟子たちは従っていくべき師匠を悲惨な十字架で亡くしてしまい、進むべき道を見失っていた。またその師匠を見捨てて逃げてしまい、そんな自分自身のだらしなさや不甲斐なさにも打ちのめされてもいたに違いないと思う。おまけに処刑された犯罪人の弟子という汚名まで着せられることになった。ずっと先まで続いていると思っていた明るい未来が突然断ち切られてしまったような、そんな状況に立たされていたのだろうと思う。どうしていいか分からない、何をする気力も元気もなくしていたんだろうと思う。
振り返って
しかし弟子たちはそんな絶望の中で、かつてのイエスの姿を思い出してきたんだろうと思う。
イエスは病気の者や罪人とされた者、汚れていると言われている者、そんな社会から見捨てられ除け者にされている者のところへ出かけていった。誰からも愛されていないと思っている人、自分には何の価値もないと思っている人、あるいは人生に挫折し失敗しうちのめされている、そんな人のところへ出掛けていき、あなたを愛している、あなたが大切なんだと伝え、絶望している人達に生きる力を与えてきた。
彼らはその絶望の中で、かつて聞いたイエスの言葉を聞き直し、かつて見たイエスの振る舞いを見つめ直したのだろうと思う。弟子たちはそうなって初めてイエスの本当の姿を発見したんだろうと思う。絶望しているからこそイエスの言葉の意味やすごさが身に染みて分かったんだろうと思う。それこそが復活のイエスとの出会いであり、そんな心の中でのイエスとの出会いによって弟子たちは生きる力、もう一度立ち上がる力を与えられた。それこそが聖書の伝える復活イエスとの出会いなのではないかと思う。
先に召された方たちも、それぞれにいろんな苦しみを経験して生きてきたことだろう。そしてその中でイエスの言葉を聞いて力を与えられて慰められてきたことだろう。聖書を通して、イエスの生き様を見て、イエスの言葉を聞いてきたことだろう。この方達もイエスと出会ったのだ。
今日の聖書ではマグダラのマリアが泣いていて後にいたのがイエスだと分からなかったことが書かれているが、これはこの時の弟子たちみんなの姿であったんだろうと思うし、これはここに写真がある先に召された人達、そしてまた私たちの姿でもあるように思う。私たちが気付かない時に、もうイエスは私たちのすぐ後にいてくれているということなのだと思う。
自分に気付かないマリアに対しイエスが「マリア」と声を掛けたように、イエスは私たち一人一人に声を掛けてくれているに違いないと思う。イエスを見ることもできないし、声を聞くこともできない。しかし見えない形で、聞こえない形で、私たちのすぐ後にいてくれている、そして私たちが振り向くことを待っているんだと思う。
先に召された方たちが振り向いてイエスと出会ったように、私たちもこのイエスと出会っていきたいと思う。
そのイエスは見えないし、声を聞くことも出来ない、しかしいつも一緒にいてくれる。お前の事が大切だ、お前はひとりぼっちじゃない、そう語りかけてくれている。そしてそれを信じられるということはとても嬉しいことだ。
先に召された方達が聞いてきたそんなイエスの声を、私たちも聞いていきたいと思う