礼拝メッセージより
ピラト
ポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus, 在位26年 - 36年)はローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(ただしタキトゥスによれば皇帝属領長官)である。日本の聖書翻訳では格変化語尾を省いてポンテオ・ピラトと表記するのが一般的である。(wikipediaより)
要するにピラトはローマ帝国の役人で、ユダヤ地区を管理していたわけだ。ピラトとユダヤ人たちとは支配者と支配される側ということで当然いろんな軋轢があったようだ。
ピラトにとってユダヤ人達は結構やっかいな人たちだったんだろうと思う。ローマ帝国では皇帝礼拝をしなければいけなかったようだが、ユダヤ人たちは特別に皇帝礼拝をしないでも認められていたらしい。
ピラトはローマ軍の軍旗の先端に皇帝の像をつけてエルサレムにやってきたそうだ。それまでの総督はそう言う像がユダヤ人の嫌う偶像であると知っていたのでエルサレムに来るときはその像をはずしていたが、ピラトはそれをつけたままエルサレムにやってきた。そうするとユダヤ人達は像をはずしてくれと頼んだ。それでもなかなか聞いてくれないということで、ピラトに五日間まとわりついた。そこでやっと話しを聞こうということになったが、ピラトはユダヤ人達の周りを兵隊で取り囲んで要求を取り下げないと殺すと言った。そうするとユダヤ人達はならば殺せ、と頸を差し出した。
無抵抗の者を殺すなんてことになるとユダヤ人達が騒ぎ出すに違いないし、ローマではおかしなことがあると皇帝に申し出ることができるということになっていたようで、治安を維持できない総督であるということになると自分の立場も危うくなる、と思ったのだろうけれども、ピラトは軍旗についている皇帝の像を外すことに同意するしかなくなった。
ピラトとユダヤ人達にはその他にもいろいろといざこざがあり、ピラトにとってはユダヤ人は自分の思うようにできない面倒な人たちだったのだろう。
そんなユダヤ人達が今度はイエスを処刑してくれと言ってきた。
ピラトが、どういう罪でこの男を訴えるのかと聞いたが、ユダヤ人たちは、この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう、と答えている。ユダヤ人たちは俺たちが連れてきたからには罪があるんだ、つべこべ言わずに死刑にしろ、とピラトを脅迫しているような感じがする。
ピラトは、お前たちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け、と言うと、ユダヤ人たちは、私たちには人を死刑にする権限がありません、と言ったという。
そもそもユダヤの処刑は石打ちの刑で、十字架はローマ帝国の処刑方法だ。ここでユダヤ人たちは自分達が死刑にする権限がないと言っているけれど、使徒言行録を見るとその少し後にステファノという人が石打ちの刑で処刑されていて、表向きはユダヤ人には死刑にする権限はないことになっているけれど、厳密に守られている訳ではなく黙認されているような状態だったのだろうと思う。
ピラトは総督なんだから、ユダヤ人たちが死刑にする権限がないことはもちろん知っていただろう。自分のところへ連れて来たということは死刑にしてほしいということだということも分かっていただろう。
ユダヤ人たちがイエスをピラトのもとへ連れてきたのは、敢えてピラトに処刑させようという気持ちがあったということなんだろうと思う。
律法
ユダヤ人たちはなぜそこまでしてイエスを処刑したかったんだろうか。
自分たちが一所懸命に文字通りに律法を守ってきたことに対していちゃもんをつけられてきた、自分たちのことを批判された、そのことに耐えられなかったということなのだろうか。
それとも、仕方なく律法に縛られ、いやいやながら一所懸命に律法を守っている自分達を尻目に、イエスが自由におおらかに生きていることが我慢ならなかったのだろうか。
兎に角なんとしてもイエスを死刑にして、この世から抹殺しないとおさまらないという感じがする。
この時は丁度過ぎ越しの祭りの時期だった。過ぎ越しの食事をするためには潔くないといけなかった。異邦人のすみかは不浄であると言われていたそうで、そこに入ると汚れてしまって過ぎ越の食事ができない、そのために総督の官邸にも入っていかなかったようだ。
過ぎ越しの祭りは種入れぬパンの祭りでもあった。その準備にパン種狩り、という行事があって、各家庭から集めたパン種を燃やす行事があったそうだ。そんな時にパン種がある異邦人の家に入った場合は、夕方まで不浄でなり、沐浴をしてはじめてきよくなると考えられていた。だから総督の官邸に入らないようにするということは、神の律法をきちんと守るということだった。そんな言わば信仰深いユダヤ人たちなのだ。律法はしっかりと、それこそ命がけで守ろうとしている敬虔な人たちなのだった。
自分達はこんなに一所懸命に律法を守っている、自分達は律法違反を繰り返すイエスとは違うのだ、こんな奴は死刑にしなければいけない、そんな思いを持っていたんじゃないかなと思う。
疑問
ユダヤ人たちは疑問を持つことを恐れていたのかもしれないという気がしている。これが絶対正しいんだと思っていることを崩されたくない、これで良かったんだろうかという疑いを持つこと自体を恐れていたのかもしれないと言う気がする。
これで良かったんだろうか、間違ってないんだろうかと思うことは苦しいししんどいことだ。絶対間違いない、正しかったんだと思っている方が安心できる。律法は間違いない、それを守って生きていくことが絶対的な善なのだと思っている、そんな思いを揺さぶられることに恐怖を覚えていたのかなと思う。それに耐えられなくなって、イエスを抹殺しようとしているんじゃないかなという気がする。
真理
イエスとピラトとの問答は何だかよく分からないけれど、その中でイエスは、わたしは真理を証しするために来た、と語っている。真理とは何かと考えると難しい。
かつてイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:16)と言ったことがあった。そうすると真理とはイエス自身ということなのかな。
あなたは
イエスは、お前がユダヤ人の王なのかと問うピラトに対して、「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問い返している。
なんだかこれは福音書を書いたヨハネが私たちに向けて語っている言葉のような気がする。あなたはイエスをどう見ているのか、キリストだとか救い主だとか、それは自分の考えなのか、ヨハネは私たちにそう語りかけているのではないか。
イエスは言う、真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。私たちにとっての真理とはイエスの声を聞くことだ。そしてイエスは、愛する者となるように、愛し合う者となるようにと言われている。
イエスの声をしっかりと聞くこと、それが真理を知ることであり、それで真理に属することになる、ヨハネはそう語っているように思う。
ユダヤ人たちは前提に律法があって、律法に叶うかどうか、律法に背いていないかどうかという目でイエスを見ていたんじゃないか、律法という基準でイエスを計っていたんじゃないか、その結果として死刑ということになったんじゃないかと思う。結局イエスの本当の姿、イエスの伝える真理、真理そのものが見えなかったんだろうと思う。
ユダヤ人たちは律法という堅い信念を持って、そこからイエスを見ていたようだ。私たちもいろんな前提を持ってイエスを見ているのだろうと思う。自分が正しいと思い込んでいる基準からイエスを評価している面があるんだと思う。キリストならこうすべきだとか、神ならこうすべきだとか、神なのにどうしてこうしないのとか、そんな基準でイエスを評価している面があると思う。
それよりもイエスを真正面からしっかり見ること、イエスからしっかり聞くこと、そこでこそ真理が見えてくる、イエスの本当の姿を見て欲しい、イエスの本当の思いを知って欲しい、ヨハネはそんな思いを持っているような気がする。
イエスにこそ真理がある、イエスこそ真理なのだ、そんな声が聞こえるようだ。