礼拝メッセージより
逮捕
最後の晩餐を終えたイエスと弟子たちは、キドロンの谷の向こうへ出て行った。そこにはオリーブ山があり、その中腹にゲッセマネの園があった。ゲッセマネというのは「油絞り」という意味で、ここではその丘で育つオリーブから油が絞られた。エルサレムには私有の庭園をもつほどの空間がなかったので、裕福な人たちはここに庭園を持っていた。イエスの友人の誰かが持っている庭園に入ることを許されていたのだろう。イエスと弟子たちは静けさを求めてしばしばそこを訪れていた。だからユダはそこに行けばイエスに会えるということを知っていた。
ユダは一隊の兵士たちと祭司長たちやファリサイ派の遣わした下役たちを引き連れてやってきた。12節では千人隊長がいたということなので、兵士は千人くらいいのただろう。松明や灯火や武器を手にして、ものものしくやってきた。どこに隠れても必ず見つけ出すというような勢いだったようだ。
ところがイエスは反対に自分から進み出て「誰を捜しているのか」と言ったという。兵士たちが「ナザレのイエスだ」と答えたのに対し、イエスが「わたしがそれである」と言ったとき、兵士や下役たちは、イエスが堂々と自分から目の前にやってきたことでびっくりして腰をぬかさんばかりだったのだろう。
イエスは、わたしがあなたたちが探している人間だ、私を捕まえればいいのだからこの人々は去らせなさい、と迫ったという。ペトロは剣を持っていたので大祭司の手下の右の耳を切り落とした。力ずくでイエスを守ろうとしたのか、相手をやっつけようとしたのか。しかし十数人で千人を相手にするというのは冷静に考えるとかなり無理がある。イエスはそんなペトロをいさめた。しかしその理由はとうていかなわないから止めろということではなく、父がお与えになった杯はのむべきではないか、と考えていたからだった。自分が捕まり処刑されることが父なる神の計画ならばそれに従おうということだった。
去らせなさい
ちなみに9節の「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」というのは、6章39節の「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」という言葉のことらしい。福音書を書いたヨハネはその言葉がここで実現したと考えたようだ。
悠然と
他の福音書ではイエスは逮捕される前にゲッセマネで祈ったことが書かれている。
マルコによる福音書14:35-36には『少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」』とあるように苦しみつつ祈っている。ヨハネによる福音書にも17章にイエスの祈りがあるけれど、そこを見るとイエスは自分に与えられた務めというか宿命というか、それを淡々と受け止めているかのような祈りに見える。さも当然のようになんのためらいもなく十字架へ向かっているかのようだ。
今日の箇所でも4節では「イエスは御自分の見に起こることを何もかも知っておられ」ているとあり、それでも11節で「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言いつつ、飽くまでも悠然とというか果敢に前進しているかのようだ。
わたしである
イエスは自分を捕らえに来ている者に対しても自分から「誰を捜しているのか」と聞き、彼らが「ナザレのイエス」だと答えると、「わたしである」と言ったと書かれている。
「わたしである」というの原文のギリシャ語だと「エゴー、エイミー」というそうで、英語に訳すと「I am.」となるそうで、「わたしはある」という風にも訳せるみたいだ。旧約聖書の出エジプト記で、モーセが神に名前を聞いたことが書かれているけれど、その時の神の答えが「わたしはある」と答えたと書かれている。この時の神の名前と今日のイエスの「わたしである」というのは同じ言い方ということになるようだ。
福音書を書いたヨハネはここでイエスが自分のことを神であると口にしたということを書いているということになるんだろうと思う。それはヨハネがイエスは神なのだということを信じていて、そのことを伝えようとしているということでもあるんだろうと思う。
人間イエス
僕は長い間、イエスは神の子であり、キリストであって、十字架につけられることも最初から決められていることで、決められた道を淡々と進んでいっているのかと思っていた。キリストなんだから、神なんだから、悩んだり苦しい思いをしたり、そんなこととは無縁で、いつも悠然と構えているような思っていた。
このヨハネによる福音書を見ているとまさにイエスはどこか何事をもたじろがず悠然と構えているように見える。パッと見にはそう見える。けれどどうなんだろうか。
「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」なんて悠然と語っているようにも聞こえるけれど、その言葉の裏にどんな思いがあるのか、その言葉を発するまでにはきっといろんな葛藤があったんじゃないかなという気がしてきている。
知っている?
4節では「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」と書いてあるけれど、知っていたんだろうか。十字架も知っていたんだろうか。知っていて向かっていたんだろうか。
神だから何でも知っているのかもしれないけれど、知っているのに十字架に向かっていったとしたら余計大変なことだなと思う。
この前のテレビドラマで、余命短くなった姉が自分の生命保険で弟の借金を返済するために、密かに元夫に自分を殺してもらった、なんて話しがあった。分かっていて包丁で刺されるなんて出来ないだろうと思ったし、生命保険のために憎くもない相手を刺すことだってできないんじゃないかと思った。現実には有り得ないだろうと思ってみていた。
イエスはその後のこと、十字架のこと知っていたんだろうか。知ってて受け入れたんだろうか。そうしたら余計すごいことだなと思うようになった。
十字架
もうすぐイースターだけど、なんで毎年毎年イースターがやってくるんだろうかと思う。復活なんてよくわからない話しを毎年するのは本当に大変だ。一体何だったんだろう、何が起こったんだろうなんて思い始めるとどんどん深みに嵌まっていくような感じがしている。でも案外毎年考えることで少しずつ見えるものが違っているというか、違うものが少しずつ見えてきているような気もしている。
そしてこの頃はイースターの前の十字架に思い悩んでいる。なんでイエスは十字架にかけられたのだろう、どうして十字架にかけられないといけなかったんだろう、本当に思い悩んでいる。私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられた、と聞くけれどしっくりこない。
変な話しだけれど、十字架を随分遠くから眺めているような気がしてきている。十字架の意味はなんなんだろうか、なんてすごく遠くから眺めているなと思う。今年はもっとイエスの近くで、できるだけ近くにいたいと思っている。これから十字架のつけられるイエスにできるだけ寄り添っていたいと思う。ヨハネによる福音書にはないけれど、他の福音書には弟子たちが逃げた事が書かれているけれど、案外自分も十字架のことを真剣に考えないように逃げていたような気もしている。
今年はなるべく逃げないでイエスについていきたいと思う。そこから何かが見えたら良いな、何かを感じられたら良いなと思っている。