礼拝メッセージより
ぶどう
ヨハネによる福音書はなんだかよく分からんことを書いていることが多いけれど、今日のところは割りと分かりやすいなと思う。繋がってる、繋がってない、つながってる、つながってないとやたらくどいなという気はするけれど。
というわけで今日はぶどうの木とぶどうの枝の話しが出てくる。
ぶどうはパレスチナ全域で栽培されていたが、良い実を得るためにはとても手間のかかる植物なのだそうだ。ぶどうの木はすごい勢いで成長するので、徹底的に刈り込む必要があるそうだ。そしてぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことをゆるされない。よりよく生育するために毎年徹底的に切り落とされてしまう。実のなる枝と実のならない枝とがあって、実のならない枝は木の力を浪費させないために徹底的に切り落とされる。このようにぶどうは切り込みをしないと収穫を得ることができないそうだ。
またぶどうの木は柔らかすぎて何にも利用できない。切り落とされた枝は燃やしてしまうしかなかった。
木と枝
イエスは自分のことを、わたしはまことのぶどうの木であるという。「まこと」ってどういうことなんだろうか。ぶどうの木にまことの木と偽物の木があるんだろうか、なんて屁理屈を言いたくなる。5節には「わたしはぶどうの木」とあって「まことの」がなくなっているし。
そして農夫である父なる神が実を結ばない枝は取り除いて手入れをするという。前述の収穫を得るために実を結ばない枝を切り落とす風景が見えるような感じだ。続く3節の「わたしの話した言葉によって、あながたがは既に清くなっている。」という言葉が出てくるけれどこれはどういうことなんだろうか。どうして清い話しになるんだろうかと思う。あなたがたは切り落とされる枝ではないということなんだろうか。
その後、わたしにつながっていなさい、わたしはあなたがたにつながっている、という話しになる。つながってないと実を結ぶことができないという、すごく当たり前の話しをする。そして5節で、改めてイエスは自分がぶどうの木で、あなたがたは枝である、人がわたしとつながっていれば豊かに実を結ぶ、わたしを離れてはあなたがたは何もできない、つながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れ、火に投げ入れられて焼かれてしまうという。
「人が」という話しと「あなたがたは」という話が混ざっているのはどういうことなんだろうか。こういう一貫性のなさがこの福音書のわかりにくさに繋がっているような気がするんだけれど。それともただ僕自身の読解力がないだけなんだろうか。
その後は専ら「あなたがた」の話しになって、あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる、なんてことを言っている。まるで魔法使いがなんでも願いを叶えてくれるようなことを言っているけれど、もちろんなんでもわがままな願いを叶えてくれるということではないだろうと思う。
続いて「あながたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言う。父が、つまり父なる神が栄光を受けるとはどういうことなんだろうか。栄光ってなんなんだろうか。ちっとも分からない。
それに続いて「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」という話しになる。掟を守ることは愛にとどまることであるというのだ。それってどういうこと?と思うけれど、掟の話しは後にまた出てくる。
そして「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と言う、なんだか今日の結論みたいな話しが出てくる。
要するに、私たちはイエスにつながることで実を結ぶ、そんなぶどうの枝であるというのだ。ぶどうの枝がぶどうの木に繋がっていなければ実をむすぶことはできるわけがない。枝は木に繋がることで水分や栄養を貰っている。繋がっていなければ生きていくこともできない。そんなことは説明する必要もない、誰もが知っていることだ。
そして私たちとイエスとの関係は、そんな枝と木の関係と同じであるというのだ。つながっていることが大前提、つながっているから生きていける、つながっているから実を結ぶことができる、そしてその実というのは「喜ぶ」ななんじゃないかなと思う。
つながる
枝が木に繋がっているというのは分かるけれど、では私たちがイエスにつながるとはどういうことなのか。
目に見える人間同士、身体を持っている人間同士ならば、手をつなぐくこともできる、しかし見えないイエスとつながるにはどうすればいいのか。
7節に「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」とある。私たちがイエスにつながるとは、イエスの言葉が私たちのうちにあるということ、イエスの言葉を私たちの内に持つことで私たちはイエスと繋がるということなのかなと思う。
私たちはイエスに言葉をもらうことでイエスに繋がる。枝が水分や栄養を貰い続けて実を結ぶように、私たちもイエスの言葉を貰い続けることで生き、実を結ぶことができるのだ。
私たちに必要なものをその都度貰っていけばいいことになる。自分がいっぱい抱えて溜め込んでおく必要もない。
水道が断水するときには、風呂場や鍋ややかんや、いろんなものに水を溜めておかないといけない。けれども水道からいつでも水が出るならばそんなことをする必要もない。私たち自身の中にどれほど溜められるかは問題ではない。私たちにどれほどの容量があるのかなんてことは問題ではない。
同じように私たちが大きな立派な人間になることよりも、イエスにつながっていることが大事なのだ。
愛
10節でイエスは「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」と言っている。掟を守ることが愛にとどまることになるというのはなんだかよくわからないなと思うけれど、じゃあイエスの掟とは何なのかと思うと、12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とある。互いに愛し合うこと、それがイエスの掟である。互いに愛し合うことがイエスの愛にとどまることになるということだ。
では愛とは何なのか。愛するとはどういうことなのか。
インターネットに面白い話しが載っていた。
『倫理の担当及び僕がいた水泳部顧問の先生。
非常に強面で、怖いというか生徒は勝手に怯えてた。
あるときクラスメートが罰ゲームで
「先生、愛ってなんですか?」と授業中に質問。
先生は即答で
「信じ、待ち、許すことだ」
教室が拍手にのまれた。』
後で調べたら、この「信じ、待ち、許すこと」というのは、「スクールウォーズ」という高校ラグビーのテレビドラマで出てきた先生の台詞なんだそうだ。
愛ってなんですかって聞かれてもすぐ答えられないよなと思う。ドラマの台詞だとしても、「信じ、待ち、許すことだ」ってすぐに答えたってすごいなと思う。
急に聞かれてもなかなか答えられないよなと思う。
イエスにつながるということは、イエスに愛されること、そして愛されていることを知ることなんだろうなと思う。イエスの愛を受けること、それが私たちがイエスとつながっているということなんだろうと思う。子どもにとって親の愛を受けることが一番の幸せであるように、私たちにとってはイエスの愛を受けることが一番大事なことなのだ。だからこそイエスは私につながっていなさい、私のもとにとどまりなさいと言うのだろう。
しかもイエスは「わたしもあなたがたにつながっている」(15:4)とも言っている。私たちの方から繋がるというよりもイエスの方から繋がっている、私たちの力でつながるというよりもイエスの力で繋がっているということなんだろう。
そうするとつながっていなさいというのは、ちゃんとつながっていないと、切り落として燃やしてしまうぞと脅しているのではなくて、つながっていることを忘れないで欲しい、愛されていることを忘れないで欲しい、そしていつもいつも愛を受けて欲しいと言っているということなんだろうと思う。
喜び
そしてそれは私たちの喜びが満たされるためだと言っている。イエスに愛されること、そして互いに愛し合うこと、それは喜びだ、それこそが喜びなんだ、そう言っているように思う。
この喜びこそがここで言う実なのではないかという気がしている。喜びという実を結ぶために、今この瞬間も私たちはイエスにつながっている。今この瞬間もイエスに愛されている、愛を受けているのだ。
イエスにどのように愛されているかを知るために、また忘れないために、私たちは聖書を読んでいる。