礼拝メッセージより
心配
僕の人生は9割方心配で出来てるんじゃないかと思う。この先どうなるんだろうか、大丈夫だろうかといつも何か心配している。
特に先が見えない、見通しが立たないような時には尚更だ。なんとなくでも見通しが立っていればあまり心配しないで済む。実際には見通しが立っていてもその通りに行くとは限らないけれど、それでも見通しが立っていればそれなりに安心できる。
牧師いつまで続けられるんだろうかとか、どこに住むんだろうか、貯金もほとんどないしどうなるんだろうかなんて真面目に心配すると夜も眠れなくなりそう。
最近では、コロナウイルスのことでいろいろ心配している。何がどうなってるのかはっきりしないし、この先どうなっていくのか見通しが立たないでそわそわしている。経済のことはよく分からないけれど、社会全体が大変なことになりそうだという心配もあるし、それよりも自分自身が感染したらどうなるんだろうか、そうしたら2週間籠もってないといけないのかなとか、そうしたら礼拝どうするのかなと思ったりしている。
実は切実なのは5月のコンサートが出来るのかどうかとか、出来なくなったら入場券買って貰った人にどうやって返金しようかというのが一番心配だったりする。早く終息して欲しいと期待しつつニュースを見ているけれど、全然終息しそうもなくて、そうすると自分の具合も悪くなっていくような気分になる。
緊迫
イエスの弟子たちも、この頃緊迫した状況になってきていることを感じていたんだろうと思う。
ユダヤ教の指導者たちとの対立が目に見えてきていた。そしてイエスが自分達の足を洗い、あなたたちも互いに足を洗わなければならないなんてことを語った。その後、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている、なんてことを言い出した。新しい掟を与える、互いに愛し合いなさいなんてことも言った。
弟子たちにとって先が見えない状況になっていたんだろうと思う。ただならぬ雰囲気は感じていたんだろうと思うけれど、何が起こっているのか、起ころうとしているのか分からず、不安でいっぱいだったんじゃないかと思う。
心を騒がせるな
そんな弟子たちにイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と語った。その後わたしの父の家には住む所がたくさんあるとか、場所を用意したらあなたがたを迎えるなんてことを言った。
さらにイエスは、わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている、なんてことを語っている。
ちょっと変な文章だなと思う。どこへ行くのかその場所を知っていると言うのが普通じゃないのかな。道を知っているなんて言うかなあ。トマスが、わたしたちには分かりません、どうしてその道を知ることができるでしょうか、と聞いたとあるけれど、どうして道の話しになるんだろうか。もちろん道が分かれば自ずと行く先も分かるとは思うけれど、やっぱり普通は道を聞くんじゃなくて行く先を聞くんじゃないのかなあ。
道、真理、命
その後イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれもイエス父のもとに行くことができない。」と語っている。
道とか真理とか命とか、勿論単語の意味は分かるし、イエスこそ道であり真理であり命である、なんてこれまでも分かったように語っていたけれど、改めて考えるとよく分からない。
イエスが父なる神へ通じる道を教えてくれたとか、イエスが神への道を共に導いてくれるというのであれば分かるけれど、イエス自身が道であるとはどういうことなんだろうか。
またイエスが真理であるとはどういうことなんだろうか。イエスは正しい方であるとか、イエスが真理を教えてくれたというのであれば分かるけれど、イエス自身が真理であるとはどういうことなんだろうか。
またイエスが命であるとはどういうことなんだろうか。この命はヨハネによる福音書に度々出てくるギリシャ語でゾエーという、心臓が動いているという肉体的な命の方ではない充実した命、活き活きとした満ち足りた命というような方の命だそうだけれど、イエスが私たちにそんな活き活きとした命を与えてくれるとか、充実した生き方へと導いてくれるというのであれば分かる気はするけれど、イエス自身がその命であるとはどういうことなんだろうか。
そんな屁理屈みたいなことばかり考えていて、なんだか分からないなあと思っていた。数日前ここを読みながらよく分からないけれど何だかホッとしたというか安心した。ホッとしたと安心したは同じだな。
道とか真理とか命とかこういうことだというのはやっぱりよく分からないままだけれど、なんと言ったらいいのか納得してないけれど、理屈じゃなくホッとした。でもそんなこと言ったって礼拝のメッセージにならないよなと思った。けれど、今はそれが正直な気持ちだ。
共にいる
だいたい住む所がいっぱいあるという父の家のこともはっきり分からないし、イエスが道であり心理であり命であるというのも分かるような分からないような気持ちだ。
一つだけ分かるなと思うのは、「わたしがいる所に、あなたがたもいることになる。」という言葉だ。
イエスがいる所に私たちもいることになる、そこがどこなのか、どんな所なのかよく分からない。どこにあるのかもどんな場所なのかも僕にはよく分からない。けれどそこはイエスがいる所であるということだ。それだけは分かっている。
だからこの箇所を読んでホッとしたのかな。
道
分からないと言いつつ、、、。イエスが道であるならば、私たちはその上を歩くということになるのかなと思う。イエスの道を歩いているならば、そこでつまずいても、うずくまっても、やっぱりそこはイエスの上にいる、足もとはイエス自身ということになる。バタッと倒れ込んでしまったとしても、イエスの上に倒れ込むということになる。
歩いても走ってもつまずいても倒れ込んでも、いつも足もとはイエスなんだ。いつもイエスの上にいるんだ。
相変わらず先の見通せない、不安と心配の人生だけれど、でもそれもイエスの道を歩む人生、イエスという道の上を歩む人生、いつもイエスと共にいる人生なんだ。イエスという道を歩く人生に私たちは招いてもらっている。うれしいありがたいことだ。