礼拝メッセージより
辞める?
今日の話しはイエスが弟子たちの足を洗ったという話し。足を洗うというのは仕事を辞めるとき、特にやばい仕事をしてる人がその仕事を辞めるときに言う言葉だよな。
説明
ところでヨハネによる福音書ってなんだか説明が多いような気がする。それも目に見えない心の中の動きみたいなことまでも見てきたように説明している。
今日の13章でも、1節に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いている。こんなこと言っちゃいけないのかなと思いつつ、そんなイエスの心の内側の思いなんて何で分かんの、なんて思ってしまう。2節も3節も同じように外からは見えない内面の説明をしているけれど、確かにそうかもしれないけれど、本当にそんなこと分からないだろうと思う。
結局はこれは福音書をまとめた人の解釈なんだろうなと思う。ヨハネによる福音書には、わたしは○○である、というのがよく出てくる。わたしは世の光であるとかわたしは良い羊飼いであるとか。わたしは良い人間です、なんて言う人は胡散臭いし大概信用できないという気がする。実際にイエスがそう言ったのかもしれないけれど、それよりもこれは福音書をまとめた人の告白、信仰告白なんじゃないのかなという気がしている。
奴隷
そういうわけで今日はイエスが弟子たちの足を洗ったと話しだけれど、パレスチナの風習では人々は祝宴に出かける前に沐浴をしたそうだ。しかし招待された人の家についたときには足を洗わないといけなかった。というのも、当時はもちろん道を舗装しているわけでもなくて埃っぽかったし、靴も今のような立派なものではなく皮を靴底にして、それに紐をつけただけのようなものだった。だから沐浴をしてきれいにしてから出かけても、外を歩くとすぐに足は汚れてしまったようだ。だから家についたときには足を洗わないといけなかった。そしてこの足を洗うというのは奴隷の仕事だったそうだ。
その奴隷の仕事をイエスが始めたというわけだ。弟子たちはイエスがどうしてそんなことをするのか理解できていない。ペトロもまるで分からなかったようで、あなたが私の足を洗うのですか、と聞いている。イエスは、私のしていることは今は分からないが後で分かるようになる、なんて答えている。それでもペトロはそんなことやめてくれと言った。理解できないままに足を洗われる、しかも自分の師匠が奴隷のように自分の足を洗うなんてのは抵抗があったのだろう。
しかしイエスは、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたとわたしと何の関わりもないことになる、なんてことを言った。そんなに言うなら手も頭も、というのは、ペトロが事の成り行きを理解できない混乱していたから、それでよく分からないことを言ったんじゃないかという気もする。
関わり
ここでイエスは、ペトロの足を洗うことで初めて二人のかかわりができるのだと言っている。イエスは足を洗うことでペトロや弟子たちとのかかわりを持つというのだ。
足は一番汚れやすい、一番汚れているところ、そこを綺麗にするという仕方でイエスは周りのものとのかかわりを持とうとしているということなんじゃないかと思う。
私たちに対しても同じなんだろうと思う。私たちも足を洗って貰うこと、つまり自分の汚れているところ、自分の一番醜いところをイエスに洗ってもらうことで、イエスとの関わりを持つということなのではないかと思う。
誰にも知られたくないような、決して誰にも話せないような自分の一番醜い過去、醜い思い、握りしめてなかなか離せないプライド、そんなものをイエスに洗って貰うこと、そんないろんな思いをイエスにぶちまけ、洗ってもらう、イエスはそういう仕方で私たちと関わりを持つんだと言われているような気がする。
つまり私たちとイエスとの関わりは、私たちが立派になって信仰深くなって初めて持てるというようなものではないということなのだろう。
礼拝を休まないで、献金をいっぱいして、いろんな奉仕を誰よりもして、そうすることで私たちがイエスとのかかわりを持てるというのではない。もちろんそれはすばらしいことだけれど、イエスに足を洗ってもらわなければ、つまりイエスに自分の醜いところをさらけ出さないならば、そんなところは洗わないでください、そんなところは見せたくありません放っといてください、と言っているならば、イエスとは何の関わりもなくなるということなのではないかと思う。
先ずは自分が醜い汚れた人間であること、赦されなければいけない人間であることを認めること、そしてそんな自分を洗ってくださいとイエスにさらけ出す、そのことで初めてイエスとの関わりが生まれてくるということなんだろうと思う。
またイエスはあなたがたも互いに足を洗い合わなければならない、と言っている。それはお互いに汚い部分、醜い部分があるということを認めていくこと、そしてそんな汚い醜い部分を聞き合っていくということでもあるのだろうと思う。
本当の自分
でも僕は醜いところ、格好悪いところは隠して隠して、良い格好してしまう。ほとんど癖になってしまっている。久しぶりに会ってすっかり顔を忘れてしまって本当は誰だかわからなかったくせに、ついつい最初から分かっていたような振りをしてしまうこともあった。
聖書のことについても分からないくせに分からないと言っちゃいけないと思うような所もある。牧師になって割りとすぐ頃に、家庭集会に言った先で、その家の人の知り合いの人から、イエスがイスカリオテのユダに対して、この人は生まれない方が良かったと言ったことが書かれている、あまりにひどすぎる、どうしても納得できない、これはどういう意味なのか、と聞かれたことがあった。牧師なんだからちゃんと答えないといけないという気持ちが強くて、内容は覚えてないけれど答えにもならないことを喋った記憶がある。分からないと言えないで、分かっていない自分を必死に隠そうとしていたなあと思う。最近は昔に比べればだいぶ分からないと言えるようにはなって来たけれど。
教会の中でも良い格好してしまうというか、本心を出しづらいような面があるような気がする。教会関係の文書を見ていると、本当は苦しくて仕方ないのに、これも神さまからの試練ですと書いてあったり、本当は不満だらけなのに感謝ですなんて書いてあったりということをよく見る。教会の中ってそんな信仰深い振りをしてしまいがちだと思う。
一番汚い思いや考え、一番苦しい気持ち、一番大変な状況、それを私に見せてほしい、話して欲しい、聞かせて欲しい、私もあなたと一緒に泣きたい、一緒にうめきたい、それでこそあなたとのかかわりを持てるのだ、イエスは私たちにもそう言ってくれているのではないか。
決して誰にも言えない心の奥底の醜い思い、決して誰にも見せられないどろどろした思い、それを私に見せて欲しい、聞かせて欲しい、私はそのために来た、イエスはそう言われているような気がする。
でもそれはちょっとしんどいことでもあるような気もする。本当の自分を見せることもしんどいし、自分自身でも醜いドロドロした本当の自分を自分でも見つめることも結構苦しいことでもあるような気がする。でも私たちはそれをイエスに見せることで、イエスに聞いてもらい受け止めてもらうことで私たちは癒され綺麗にされていくのだろうと思う。
そうやって綺麗にされたあなたは、あなたの隣人を綺麗にしてあげなさい、隣人の醜い思いや苦しい思いをしっかりと聞き受け止めてあげなさい、そう言われているのではないかと思う。
人間てのは、苦しさを聞いてもらい受け止めて貰うことできっと楽になる。足を洗い合うとはそういうことでもあるんじゃないかと思う。
私たちはそんな相手の苦しさを理解したり共感したりするよりも、そんなこと言うものではありませんと言って相手の言うことを否定したり責めたり、あなたがそういうことをしたからそうなったんだと分かったようなことを言って解説してみたり、あるいは人間なんてそんなものだ、みんなそうなんだ、なんて突き放したりなんてことが多いように思う。
しかしイエスがしたくれたように、私たちも相手の苦しさ、醜さ、だらしなさを受け止めなさいと言われている。それこそが愛するということなんだろうと思う。
イエスは高い高い空の上にいて、立派になって正しくなってここまで上ってこいとは言ってはいない。そうではなく、私たちのすぐそばで、しかも私たちの足もとにいて下から支えてくれているように思う。私たちが疲れ果てうずくまって顔を上げることが出来ないような時、そこに下から私たちを支えてくれるイエスがよく見えるのだろうと思う。
醜いずるい汚いを持つ本当の自分を、イエスは下からしっかりと支えてくれている。