礼拝メッセージより
病人
ルカによる福音書の10章にマリアとマルタの話しが出てくる。マルタは接待に忙しくしていたがマリアはイエスの話を聞いてばかりだったので、マルタはイエスに何とか言ってくれと頼んだ、という話しだ。
ヨハネによる福音書11章1節からのところには、その姉妹たちにラザロという弟がいて病気になり、死んでしまったことが書かれている。
ラザロが重い病気になったということで、姉妹たちはイエスのもとへ使いを送る。しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」とかなんとか言ってなかなか出発しない。
イエスがその時どこにいたかというと、すぐ前の10章を見ると、ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初にバプテスマを授けていた所であり、1章を見るとそこの地名もベタニアとなっている。
マルタとマリアの住んでいるベタニアから、イエスがいた川向こうのベタニアまで、急いで行けば丸一日で行ける距離だそうだ。
そもそもイエスはどうして川向こうのベタニアにいたのか。10章を見るとイエスはユダヤ人たちと口論して、ユダヤ人はイエスを石で打ち殺そうとしたり、捕まえようとしたことが書かれている。イエスはそのユダヤ人から逃れて川向こうのベタニアに来ていたのだ。そこにラザロが病気になったという連絡があったということになる。ユダヤ人から逃れて、捕まって処刑されるかもしれないという不安と恐怖にもさいなまれているような時に、こともあろうにユダヤの、それもエルサレムの目と鼻の先にあるベタニヤから使いが来たということだ。
11:5ではイエスはラザロたち兄弟を愛していたとあるが、11:6ではラザロの病気を聞いてから二日間同じ所に滞在したと書かれている。二日間そこに滞在したというのはなぜなのか。二日間悩んでいたということだったのだろうか。二日の間に悲しみに打ちひしがれているであろうマルタとマリアに寄り添うという決意を固めたのかもしれない。11:7では弟子たちに「もう一度ユダヤへ行こう」とイエスは言ったと書かれている。ユダヤへというのは弟子たちの返事にもあるように、石で打ち殺そうとする者たちの所へ出かけていくという決意の表れだろう。
涙
しかしイエスが到着したときにはすでにラザロは死んでいた。すでに四日も経っていた。イエスを迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言う。遅い、遅すぎる、どうしてもっと早く来てくれなかったのかという気持ちが充満している。後でマリアも同じことをイエスに言った。しかしマルタはそれだけではなく、しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると承知してます、と言う。そこからラザロが復活するという話しをすることになるが、マルタは終わりの日の復活のことは知っているという。イエスは、私を信じる者は死んでも生きる、なんてことを言ったと書かれているけれど、そんな時にそんなこと言われても分からないよなと思う。
その後28節以下を見ると、イエスはマリアが悲しみにうちひしがれている様子を見て心に憤りを覚えた、そして涙を流されたと書かれている。イエスは何に対して、誰に対して憤ったのだろうか。ユダヤ人たちはこういう時、ほとんどヒステリックなほどに、金切り声をあげて泣き叫んだそうだ。彼らの考えによると、泣きわめくほど故人に対して敬意を払うことになるのだそうだ。そうやって泣きわめく群衆に憤ったのだろうか。もしかしたらイエスは自分自身に憤っていたのかもしれないと思う。弟が病気で危ないから早く来てくれと聞いたけれども、自分の命を狙う者たちが大勢いるエルサレムにほど近いベタニアに行くことを恐れてなかなか出発できなかった。道中の足取りもずっと重いままだった。それでも何とかやってきたところがすでに四日も経っていて、姉たちは悲しみに打ちひしがれている。そんな状況を見て、イエスは自分自身を責め、自分自身に憤ったのかもしれないと思う。
11:35ではイエスは涙を流されたと書かれている。
ある牧師がこんなことを言っている。
『自分はだだをこねる娘に対して、「自分が悪いくせに泣くな」と言うことがある。しかしそう言うべきではない。むしろ人は自分の弱さ、不甲斐なさ、自分の罪のゆえにこそ泣くべきだ。神はそんな涙を決して見過ごさない。そんな涙を必ず顧みられる。ラザロの復活は、イエスのそんな涙に応えようとする神の御業であったに違いない。」
ヘンリ・ノーウェンは「傷ついた癒し人」の中で、『牧会者はいかにして癒し人として働くことができるのかと問う。牧会者が傷つき苦悩する社会や人間に対して、本当に癒し人としての働きを担うためには、牧会者自身が自分の弱さ、自分の悩み、自分の不甲斐なさに気づき、また自ら社会のただ中で、難しい人間関係において傷つき、苦悩する者でなければならない、と。その意味でまさにイエスは「傷ついた癒し人」であった。イエスは、自らは傷も弱さも悩みもない者として、神の絶大な力を振りかざして人を癒し、教えを垂れたのではない。自ら弱さを担い、傷つき、悩む存在として、誠実におのれの傷を担いながら、そのゆえにこそ、人の痛みや弱さに真実寄り添い、癒す者であり得たのだった。そんなイエスにこそならい、自ら傷ついた者として、自分の弱さや不甲斐なさに涙する者として、傷ついた人により添い、共に歩もうとする者でありたい。そして神はそんな私たちの涙を顧みて、思いがけない御業をもって応えてくださるのだと心から信じたい。』
生きる
イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる、生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。」と言った。この命という言葉はゾーエーという言葉で、肉体的な命のほうじゃなくて、永遠の命、活き活きとした命、豊かな命というような方の命という言葉だそうだ。つまりここでイエスが言う死んでも生きるという時の生きるとは、肉体的な命があることではなく、死ぬことはないというのもこの肉体的命がずっと続くということでもないだろう。イエスがここで言う生きるとか死なないというのは、神と繋がっていること、イエスと繋がっていることで豊かに活き活きと生きる、そういう豊かな命のことを言っているのだと思う。イエスとの繋がりはなくなることはない、たとえこの肉体的な命が消えようとも、イエスとの繋がりは消えることはない、ということを言っているのだと思う。
復活
兄弟を亡くしてまさに死の淵にあるような姉妹に活き活きと生きる、そんな命を再び与える、そんな風に姉妹を復活させた、イエスとはそういう方であると福音書は伝えている。
何もかもうまくいかなくて、自分の力ではどうにもできないような艱難に遭遇するときもある。失敗し挫折し失望するしかないような、そしてただただ自分の無力を嘆くしかないような時もある。しかしそんな時にも私たちにはイエスが一緒にそこにいてくれている。そんな時にも私たちと一緒に泣いてくれるイエスがいてくれている。私たちの弱さも間違いも、そして迷いも心配も嘆きも絶望も、全部知っているイエスが寄り添ってくれている。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはない。」イエスが語ったというこの言葉は、福音書をまとめたヨハネ自身の思いそのもの、信仰告白なんだろうと思う。ヨハネが福音書をまとめたのはイエスが十字架で処刑されてから何十年もたってからだそうだ。しかしヨハネにとってイエスは、ただ過去に生きた方ではなく、今まさに生きている、いつも共にいて語りかけてくれる、そして自分を生かしてくれている、活き活きと生かしてくれている、そういう方なのだ、まさにイエスは復活であり命である、そして死に瀕している私たちをも復活させ、活き活きと生きるようにしてくれる方なのだ、ヨハネはそのことをこの物語を通して私たちに伝えようとしているのだと思う。