礼拝メッセージより
仮庵祭
先週も言ったけれど、
旧約聖書レビ記23:34-43に仮庵祭の規定が書かれている。ユダヤ人の祖先が出エジプトの時に荒野で天幕に住んだことを記念して、木の枝で仮設の家を建てて一週間を過ごすという祭りだそうだ。
そして祭りの最後には、神殿の大きな燭台に火が灯され、その火はエルサレム中から見えたそうだ。仮庵祭の最後の夜は光の祭典とも呼ばれるそうで、暗闇の中で見る光は特別なものに感じられる。現代でも観光地ではいっぱいの電球でライトアップしていて大勢の人が見に行っている。
暗闇の中にある光ってのは特別な何かを感じさせる。それに松明のようにゆらめく炎を見ると何かメラメラとする気分になる。
問答
そんな時にイエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言ったと書かれている。
突然何を言い出すのかという気もする。7章の始めの方から仮庵祭での話しが続いている。そこに集まる民衆の中にはイエスの語る言葉にびっくりし、ただ者ではない、あるいは救世主、キリストかもしれないと思う人達もいたようだ。しかしユダヤ教の指導者はイエスを神から戴いた大切な律法に違反し、民衆を扇動する危険人物をいうふうに見ていたようで、そのイエスを捕まえようとしていたようだ。
7章からイエスは一体何者なのかという話しが続いている。ユダヤの律法によると二人又は三人の証人がいないと正式な証言とは認められなかったようで、本人が自分のことを語っても嘘か本当か決められなかったようだ。イエスは自分は父なる神から遣わされてきた、父が証人である、だから自分の語ることは自分ひとりで語っているのではない、ふたりの証人がいる正しい証言なのだと言っている。8章13節以下ではそんな問答があったことが書かれている。
世の光
イエスが語った、わたしは世の光である、とはどういうことなんだろうか。そんな名前の冊子があったりラジオにもそんな番組があった。
イエスは世の光であって自分達をいつも照らしてくれる、照らしてくれていると言われるとなんだか嬉しいしホッとする。確かに嬉しいんだけどちょっと漠然としていてつかみどころがないなと思っていた。
ちょうど見つけたのが週報の裏にも載せた「キリストの力」という文章だ。
『キリストの力』
彼を見よ!
彼の神々しさを見るな、
しかし見よ、彼の自由を。
彼の力を語る大げさな物語を見るな、
しかし見よ、彼が自らを捨てるその無限の可能性を。
彼を包む一世紀の神話を見るな、
しかし見よ、彼の存在への勇気、生きる力を。
そして見よ。
彼の愛が人々に沁みわたるのを。
血眼で探すのをやめよ!
じっとして、それが神であることを「知る」のだ。
その愛、
その自由、
その命、
その存在。
そして
あなたが受け入れられたなら、あなた自身を受け入れよ。
あなたが赦されたなら、あなた自身を赦せ。
あなたが愛されたなら、あなた自身を愛せ。
キリストの力をつかめ。
そして勇気を出して
あなた自身であれ!
命の光
私たちの根底を、真ん中、そこを照らす光なのだと思う。
世の光なんていうと、太陽のようにどこか遠くから地球を照らしているような、ちょっと離れたところから自分を照らしてくれているようなもののように思っていた。それでも有り難いし嬉しいことだけれど、でも今回ちょっと違うように感じている。自分の外側を照らすのではなく、自分の内側を照らす、自分の真ん中を照らす、そんな光のように感じている。
自分の真ん中には自分自身を認めない、自分自身を赦さず責める、そして自分自身を愛さない、自分自身を大切に思えないそんな思いがある。
イエスはまさにそんな自分の心の真ん中、魂の真ん中を照らすそんな光なんじゃないかと思う。
聖書はそんな魂の真ん中に届くイエスの言葉を伝えてくれているように思う。
福音書に載っている特に印象的な話しを二つ。
高価なナルドという香油をイエスの頭からぶっかけた女の人の話しがある。数百万円もするような香油を、入れ物を壊して全部ぶっかけてしまったらしい。一体この女の人に何があったのか、どうしてそんなことをしたのかは書かれていない。でも数百万もするようなものを一気にぶっかけてしまうなんてことは普通の神経ではできないことだろうと思う。実は人生を投げていた、もうどうでもいい、どうにでもなれ、というような気持ちだったんではないかと思う。しかしその女性に対してイエスは、この人はわたしによいことをしてくれた、葬りのためにしてくれたことだと言った。この女性は滅茶苦茶なことをしたんだと思うけれど、でもイエスは彼女のしたことを褒め、意味付けをしたんだと思う。
もう一つは、自分の全財産をであるレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れた貧しいやもめの話しだ。レプトンとは今で言えば50円位だそうだ。貧しいんだから一枚だけにしとけば良いのに二枚とも献金した。実はこのやもめの人も人生に疲れ果てていて、もうどうでもいい、というような気持ちで両方献金してしまったんじゃないかと想像している。でもそれに対してイエスはこのやもめの人はだれよりもたくさん入れたと言ったというのだ。あんたが一番だと言ったのだ。
ナルドの香油をぶっかけた女性も、このやもめの人も自暴自棄になっていたんじゃないかと思う。自分なんてもうどうしようもない、自分は駄目だと自分を責めていた、自分を大事にできないでいたんだろうと思う。
でもイエスはその二人を認め、二人の行為を褒めた。まさに彼女たちの心に、魂に光を当てたんだと思う。そしてその光を受けた彼女たちの心、魂は輝いていったに違いないと思う。まさに命の光を持つようになったのだ。
あなたが大切なんだ、だからあなたも自分を大切にして欲しい、あなたを愛している、だからあなたを自分を愛して欲しい、そのままのあなたがすばれしい、だから勇気を持って自分自身でいてほしい、イエスは私たちにもそう語りかけてくれているのではないか。そしてそんなイエスの言葉を聞くこと、それこそがイエスの光を受けることなんだろうと思う。イエスの光を受けた私たちの心の中では命の光が輝きだすのだ。