礼拝メッセージより
仮庵祭
旧約聖書レビ記23:34-43に仮庵祭の規定が書かれている。ユダヤ人の祖先が出エジプトの時に荒野で天幕に住んだことを記念して、木の枝で仮設の家を建てて一週間を過ごすという祭りだそうだ。
そしてイスラエルのユダヤ教徒の成人男性はエルサレム神殿へ巡礼することになっていたそうだ。また祭りの期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から祭司が黄金の器で水を汲んで運び、朝晩二回犠牲を献げる際に供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われていた。人々がイザヤ書12:3「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む」を歌っている間に、その水は泉の門を通って持って来られる。神殿に戻って祭壇に注がれる間は詩編113〜118編「主に感謝せよ」、「主よ、どうぞわれらをお救いください」という歌が笛の伴奏に合わせてレビ人の聖歌隊によって歌われる。そして最終日にはエリコの城壁を7回回ると城壁が崩壊したことを記念して人々は祭壇を7回回ったそうだ。そのときにはまた詩編を歌い踊ったそうだ。そんな賑やかな祭りだったみたい。
水
そんな祭りの終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言ったというのだ。
4章でサマリアの女の人と井戸端で会った時にも「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)と言ったことが書かれていてよく似ている。
4章の時にもそうだったけれど、ちょっと唐突な感じもする。でも祭りで水を汲む時に水の話しをするというのはなかなかすごいなと思う。空の鳥を見よと言ったり、野に咲く花の話しをしたり、すぐ目の前に見えるものを通して話しをするって、イエスはやっぱりすごいよなと思う。
どこかの牧師が礼拝のメッセージを、毎週一所懸命にひねり出しているのとは大違いだなと思う。その牧師は中身が空っぽだから、渇いた雑巾を絞るようにして無理矢理言葉を搾り出しているようだけれど、それに引き換えイエスは語る言葉というか語る内容というか内実というか、要するに中身がパンパンに詰まっているみたいだ。だから何かの拍子にというか、自分の目の前にあるもの、鳥や草や水など、目にするものをきっかけにいろんな話しが迸るように出てくるんだろうなと思う。
霊
それは兎に角、しかしこの「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」というのはどういうことなんだろうか。何を飲ましてくれるのだろうか。39節には、それは霊のことだ、つまり聖霊のことだという説明がある。霊を飲む、聖霊を飲むってどういうことなんだろうか。
大体聖霊自体がよく分からない。神は三位一体と言って、父と子と聖霊という三つで一つの神だ、ということを聞く。なんだかよく分からないけれど、三つのお面を持っているような感じなのかな。よくは分からないけれど、父なる神が子として地上にやってきたのがキリストで、キリストはいなくなったけれど、神の力が聖霊として私たちに働いている、いう感じなのかなと思う。
イエスは、魂が渇いている者に聖霊という神の力を与えると言っているのかなと思う。そしてそれは魂が渇いている者の渇きを癒すものだということだろう。
魂の渇きを癒してくれるのはイエスなのだ。
実はイエスはそのために生まれてきたということをこの福音書は伝えているのだと思う。
この福音書の7章ではイエスが何者なのか、メシアなのかどうか、キリストなのかどうかという話しが度々出てくる。今日の40節以下もそうだ。メシアはダビデの町ベツレヘムから出るはずだと考える人もいたことが書かれている。つまりメシアとしての条件に合致するかどうかで判断しようとしている人がいる。
神
また屁理屈だけど、、、
イエスは神なのかどうかという話しがある。神であるという意見と、神ではない人であるという意見と、神であり人であるというような意見もあるみたい。
実際どうなんだろうと思う。神が人となるなんてことあるんだろうかなんて考える。しかしそう考える時の神とは、自分が勝手に想像しているというか、自分勝手に思い込んでいる神にしか過ぎないなということに気付いてきた。自分が勝手にイメージしている神とイエスが合致するかどうかで、神なのか違うのかという見方をしていたなと思った。
渇いている人は
神はどこか遠くにいて、献げ物をしていつも赦しを乞わなければいけない方と思っていたけれどそうではなかった、なんだかよく分からないけれどお願いしたらかなえてくれるかもしれない得体の知れないものでもなかった。イエス自身に神が見えた、イエス自身に神を感じた、イエスこそ神だ、イエスを神と言うのだ。渇いているものをだれでも受け止め、その渇きをいやし、生きた水を流れ出るようにさせてくれる方、それこそが神だ、福音書はそう言っているように思う。
だからこそ私たちはイエスを見つめ、イエスの言葉を聞くのだ。
いつも空っぽでヒイヒイ言ってる牧師は、イエスのもとに行って飲んでいないってことかな。