礼拝メッセージより
緊張
実は先週の日曜日、午後から広島で第14回ヴォーカル・アンサンブル・コンテストってのがありました。僕は都合が悪くて一度出られなかったんですが、うちのグループは初回から全部参加してます。ということで僕自身はもう13回目になるんですが全然慣れません。
前のグループが歌っている時にステージの袖で待ってるとだんだん緊張してきて、ド緊張でそのまま本番って感じになるってのが恒です。先週もその袖でいつものように緊張して待ってたんですが、ふと先週の礼拝の聖書の言葉、「わたしだ。恐れることはない。」ってのを思い出しました。一人じゃないんだと思えてきて、随分緊張がやわらいできました。
それでうまく歌えたかどうかは分からないですが、すごく楽な気分で歌えたような気がしてます。
その翌日
22節に「その翌日」と書かれているけれど、前日の出来事が1節から書かれている。そこでは大勢の群衆がイエスに従っていて、イエスがこの人達にどうやって食べさせようかと聞いた。弟子の一人のアンデレが、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を連れてきたが、これだけではどうしようもないねと言った。しかしイエスはそのパンと魚を取って祝福の祈りを唱えてみんなに分け与えると、男だけでも五千人もいた群衆が満腹して、残ったパン屑が12の籠にいっぱいになったという話しが載っている。
40年位前に見た聖書の映画で、魚が跳ねながら湧き出てくる場面があったのを覚えている。実際にどういうことだったのか、本当にパンや魚が湧き上がってきたのか、それとも一人の少年が五つのパンと二匹の魚を差し出したのに触発されて、群衆が長い距離を移動するためにそれぞれに持っていたパンや魚を差し出したのか、はっきりしたことは分からない。兎に角日常的には起こらないような出来事がそこではあったのだと思う。
そんなことを経験した翌日、イエスを追いかけてきた群衆とイエスは問答を始める。それが今日の聖書の箇所になる。
例によってなかなか噛み合わない会話が続く。
「先生いつここに来たんですか。」
「あんたたちが探してるのはパンを食べて満腹になったからだ。永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」
「じゃあ何をすれば。」
「神が遣わした者を信じなさい。」
「じゃあかつて出エジプトの際にモーセがマンナを降らせたようなしるしを見せてくれ。」
「いや与えたのはモーセじゃない、天の父がまことのパンを与える、神のパンは天から降ってきて世に命を与えるものだ。」
「主よそのパンをいつもください。」
「わたしが命のパンだ、わたしのもとに来る者は決して飢えることがない、わたしを信じるものは決して渇くことがない。でもあなたがたはわたしを見ているのに信じない。・・・・」
なんていう話しをしている。
4章のところで、イエスがサマリアの女の人に、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない、わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠の命に至る水がわき出ると行った時に、女の人が井戸に汲みに来なくてもいいようにその水をくださいと言ったという話しがあるけれどそれと似ている。
そのときの水や今回のパンもそうだけど、イエスは身近なものにたとえて話しをするけれど、そんな唐突に言われても分からないよなと思う。もうちょっと分かりやすく、頭の悪い理解力のあまりない人間にも分かるような言葉で言ってほしかったと思ってしまう。
身体のパン
水の話しを聞くと井戸の水のことだと思うし、パンの話しを聞くとやっぱり普通に食べるパンのことだと思う。そしてそんな水やパンを期待する。今日のところでも出エジプトの時にみんなが腹減ったとモーセに文句を言ったところ、モーセは神にマンナを降らせて貰ったという話しが出ている。
サマリアの女の人も今日の群衆も、イエスの言うことがなかなか理解しない愚か者のようにも見えるけれど、結構現実の私たちの姿そのもののようにも思える。
しるしを求める気持ちは僕自身そっくりだなと思う。天からパンを降らせるように空からお金が降ってこないかななんて思う。空からじゃなくても、何かの拍子にお金持ちにしてくれたらいいなあとよく思う。あれを与えてください、これを与えてください、そんなお祈りばかりしているなあと思う。
イエスが教えてくれた主の祈りには、わたしたちに必要な糧を今日与えてください、とあるようにそれを求めることが一概に悪いことだというわけではないと思うけれど、イエスはそういうものを便利に私たちに与えてくれる存在というだけではないんだということを今日の聖書は言っているような気がする。
命のパン
水やパンは生きるために必要なもの、身体のために必要なものだけれど、イエスがここで言う命のパンとはそういう身体を生かすために必要なパンのことではなく、私たちの心というか魂というか霊と言った方がいいのか、それを生かすためのパン、心や魂のために必要なパンであると言っているのだと思う。
パンであるということはそれを食べてこそ栄養になるんだろうなと思う。つまり普通のパンもそこに置いていて見ているだけでは栄養にならなくて、食べて消化してこそ栄養になり力になる。同じように命のパンも心に入れてこそ栄養になり力になるのだと思う。それは聖書を通してイエスの言葉や振る舞いを聞き、感動し喜び安心することなんだろうと思う。
お金持ちにして欲しいとか、教会の献金を増やしてくださいとか、礼拝の人数を増やしてくださいとか、そんな願い事ばかりしているなあと思う。命のパンではなくて身体のパンを願っていることが多いなと思った。つまり自分の心の外にあるものを増やして欲しいと願ってることが多いなと思った。
心に、あるいは魂に、命のパンを蓄えていきたい、イエスの言葉を心でしっかりと聞いて生きたいと思う。渇きを感じるのは命のパンが足りないからなんだろうなと思う。
「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」(6:35)