礼拝メッセージより
本当?
イエスが水の上を歩いてきた、なんてホンマかいなと思う。神なんだから何でも出来る、出来てこそ神だということなのか。
教会に行き始めた頃はそんな神がかったイエスの姿に魅力を感じていた。いろんな奇跡を起こす、すごい力を持っている、それでこそ神だという気持ちだった。
でも最近はそんな言わば上から超人的な力で奇跡を起こすというようなことよりも、もっと違うイエス、何というか上からじゃなくて下から、自分を根底から支えてくれるイエス、徹底的に自分を肯定し味方でいてくれるそんなイエスに魅力を感じている。
いろいろな人の説教や解説を見ているといろいろなことを言っている。イエスだから水の上を歩いたんだ、イエスにはそれが出来るんだと言う人もいる。
反対に実はそうじゃないと言う人もいる。バークレイという人は、「湖の上を」と訳している言葉と、21章1節に出てくる「湖畔で」という言葉のもともとのギリシャ語は全く同じだと書いてあった。実際は船が風に流されて岸辺に近づいたところへ、イエスが湖の畔を歩いて来たということだと書いてあった。
また別の話として、実はこれは弟子たちが復活のイエスに出会った時の話しがここに出てきたということではないかと書いてあった。師匠と仰ぐイエスを見捨てて故郷へ帰ってきた弟子たちが、嵐の中で復活のイエスと出会ったという話しがここに書かれているということではないかという話しだった。
幽霊のような幻のような見える姿だったのか、それとも心の中にイエスの言葉がよみがえってくるというような出会いだったのか分からないけれど、復活のイエスとの出会いだったのではないかという話しだった。
そして「わたしだ」という言い方は、かつてモーセがユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出した際に、神にその名前を聞いた時に神が答えた「わたしはある」という言い方と同じなんだそうだ。つまりここでイエスは神であるということを伝えているということらしい。
「わたしだ。恐れることはない。」
この話しは全部の福音書に書かれていて、細かな状況は少しずつ違っている。弟子たちだけで湖に漕ぎ出したけれど嵐に会う、でもそこへイエスが近づいてきたというのはどの福音書のも共通する。
嵐に遭って苦労しているところにイエスが近づいてきてくれた、自分の力ではどうにもできないような状況になったけれども、イエスの方から近づいてきてくれたという訳だ。
嵐にあってどうなるのかとうろたえる姿はまるで日曜日の朝の僕の姿みたいだなと思った。このところ聖書教育という教案誌にそって、その箇所の聖書のメッセージをしているけれど、何をどう語ればいいのか分からないことがしばしばだ。聖書が何を伝えようとしているのか分からないことも多いし、そもそも聖書が何を言ってるのか分からないなんてこともある。
そんな時は週末が近づくとどうしたもんかなと思ってきて、土曜日の晩くらいからはだんだんと心配になってきて、日曜日の朝は苦しい思いを抱えつつ目を覚ますなんてこともしばしばだ。そしてあと何時間で礼拝だなんて思うと、焦ってきてどうしようどうしようと思ってくる。それでもどうしようもなくなって、やっとそこから注解書見てみたり、他の人の説教を読みあさってみたりすることもある。
本当にバカだよなと思う。もっと早くから準備しとけば良かったと後悔したり、早くから集中できない自分を嘆いたりして自己嫌悪に陥ってしまう。
でもよく考えるとイエスの言葉や聖書の言葉が一番よく聞こえるというか心に響いてくるのはそんな時だなと思う。
「わたしだ。恐れることはない。」そんなイエスの言葉が自分に対して語りかけてくれているように聞こえるのは、そんな自分がしんどいきつい思いをしている時だなと思う。
礼拝のメッセージが出来ないなんてことくらいは本当は大したことじゃないし、出来ないことがあってもおかしくないような気がする。
余談だけれど、神学校に行ってた時に、牧師を経験した後また改めて神学校に入って来た人がいて、その人は言っていたんだけれど、牧師をしている時にどうしても礼拝のメッセージができなくて、礼拝のメッセージの時に「今日は語ることがありません」と言ったことが一度だけあると言っていた。
今思うとすごいなと思う。すごく正直だなと思う。僕にはそんな勇気がないなと思う。本当は語ることがないと思っていても、適当に分かったような分からないような話しをして誤魔化すに違いないと思う。してきたと言った方が正直かな。余談でした。
逆境の中に
人生には礼拝のメッセージが出来ないなんてことよりももっともっと大変なことがいっぱいあるんだろうなと思う。みんなそれぞれにいろんな大変なことを抱えて生きてるんだと思う。
でもどんな大変な時でも、どんな苦しい時でも決して一人ではない、イエスがそこにいる、イエスの方から近づいてきてくれている、そして「わたしだ。恐れることはない。」と語りかけてくれている、私たちは独りぼっちではない、独りぼっちになることはない、今日の聖書はそのことを告げてくれているように思う。
弟子たちはそんなイエスの言葉をずっと聞き続けてきたんだろうなと思う。最初に聞いたのはやっぱり十字架の後だったのかなという気もする。イエスが捕らえられる時、弟子たちはみんな逃げてしまっていた。そのことに弟子の誰もが打ちのめされていたんだろうと思う。幻か霊なのかわからないけれど、そんな時にイエスの姿を見たとしたら恐れても不思議ではないなと思う。裏切ってしまった相手には会いたくなかったんじゃないかな。でも弟子たちはそこでイエスの「わたしだ。恐れることはない。」という言葉は聞いたんじゃないかなと思う。それはそのとき初めて聞いたのか、或いは十字架につけられる前から聞いていて言葉がよみがえったのかもしれないけれど。
そしてその後も何回も何回も、特に逆境の中にいる時には尚更、この「わたしだ。恐れることはない。」というイエスの声を聞いてきたんだろう。そして見えないけれどそこにイエスがいてくれていること、いつも一緒にいてくれていることを思い出してきたんだろうと思う。
イエスは上から超人的な力を発揮していわゆる奇跡を起こすというよりも、私たちの心の中にいて、下から、根っこから、土台から私たちを支えてくれているのだと思う。イエスは私たちの外の世界を変えるのではなく、私たちの中から私たちを励まし力付ける、そんな仕方で私たちを支えてくれているように思う。
「わたしだ。恐れることはない。」イエスは私たちを支えるそんな言葉をいっぱい語ってくれている。イエスのその声を聞き続けていきたいと思う。