礼拝メッセージより
噛み合わない
聖書を読んでいると、イエスと周りの人との会話が噛み合ってないなと思うことがよくある。今日の箇所はイエスがユダヤからガリラヤへ帰る途中のサマリアでの出来事だが、ここもなんだか噛み合ってない会話が続いているような不思議な箇所だ。
サマリア
ユダヤからガリラヤへ向かう途中での出来事だ。通常ユダヤ人は回り道をしてサマリアを通らない。イエスに従う弟子が多くなったことをファリサイ派が知ったということで身の危険を感じたイエスは急いでガリラヤへ向かっていたので最短距離となるサマリアを通ったのか。或いはユダヤ人たちが通らないサマリアを通ったということかも。
ユダヤ人とサマリア人の対立は何百年も昔からのことだった。紀元前722年、当時南北に分かれていた内の北イスラエルはアッシリアによって滅亡させられ、指導的な立場の人達は別の土地へ移住されられ、逆にアッシリアからの移民がサマリアに住むことになった。元からいたイスラエル人と移民との間に産まれた人々がサマリア人と呼ばれたそうだ。
南のユダも後に滅ぼされるが、バビロン補囚後に国を立てなおす際に、民族の血の純潔を守ることを再建の原理とした。そのためユダヤ人はサマリア人をイスラエル人の血を穢したと言って迫害し、エルサレム神殿に受け入れなかった。これに対抗してサマリア人はゲリジム山に独自の神殿を建設し、創世記から申命記までのモーセ五書のみを独自に編纂して対立を深めた。その後もアレクサンドロス大王によってマケドニア人をサマリアに殖民させたために、ユダヤ人は余計にサマリアを蔑視するようになった。
そんなことからユダヤ人とサマリア人は何百年もの間ずっと対立していて、交わりを嫌っていた。そのためユダや人たちは旅をするにもまっすぐサマリアを通れば近いのにわざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていた。
疲れ
しかしイエスはエルサレムからガリラヤへ向かう時にサマリアを通る最短の道を選んでいる。
そしてシカルという町にあるヤコブの井戸まで来た。その時イエスは疲れていたと書かれている。あるいはファリサイ派の追っ手から逃れるために道を急いでいたのだろうか。身の危険を感じて前の晩遅くにエルサレムを出発して、休みなく歩いたとすると、丁度このシカルという街に着くのが昼の12時ごろになるそうだ。夜通し歩いたとすれば肉体的にも相当疲れていただろうが、精神的にもかなり疲れる旅だったことだろう。
出会い
そこでイエスは丁度井戸に水をくみに来た女に水を飲ませてください、と求める。女の人は、なんでユダヤ人がサマリア人にそんなことを頼むのか、と言い返す。いつも穢れたものとして見下して交わりを嫌っているので、まさか声を掛けてくるなんて思ってもいなかったのだろう。この女の人は、ユダヤ人がどうしてサマリア人に頼むのかと答えたとある。
イエスは、もし水を飲ませてくれと言った者が誰なのか知っていたらあなたの方が頼んだだろう、そしてその人はあなたに生きた水を与えたであろう、なんてことを言う。一体何を言いだしたのかと思う。しかも生きた水って何なのかと思う。このサマリアの女の人も何を言っているのかよく分からなかったのではないかと思う。
この女の人は、あなたはその生きた水をどうやって手に入れるんですか、くむ物も持っていないし井戸も深いのに、なんてことを言う。それに対してイエスは、「この水を飲む物はだれでもまた渇く、しかしわたしが与える水を飲む者はけっして渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言った。どうやらイエスは精神的な、あるいは霊的な水、たましいの渇きをいやすような水の話をしているらしい。しかしこの女の人は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言った。普通に飲む水のことを考えているようだ。女の人にとって水をくみに来ることはかなり大変ことだったのだろう。だから水がわき出るようになればくみに来なくてもよくなる、と期待したのだろう。
それに対してイエスは、あなたの夫を呼んで来なさいと言った、というところから今日の箇所となる。
ところでこの女の人は正午ごろ水を汲みに来ている。それは異常なことだそうだ。普通は朝か夕暮れに汲みに来るそうだ。その後の会話から、彼女にはかつて五人の夫がいて今の相手は正式な夫ではないということのようだ。そんなことがあるためなのだろう、彼女は誰にも会わなくていい時間に、あえて誰もいない時間を見計らって井戸に水を汲みに来ていたようだ。誰とも関わりたくないという思いを持っていたのだろう。
多分彼女にとっては人間関係は煩わしいだけのことだったに違いない。誰かになにかを頼まれたり頼んだりするようなことをする気持ちはもうなくなっていたのではないか。周りの人間は自分を非難し蔑むだけの者だとして誰とも関係を持たないように心を閉ざしていたのではないか。
しかしイエスはこの女性に会うために、敢えてサマリアへ向かったかのようだ。
泉
「渇くことがないように、汲みに来なくてもいいように、その水をください」とこの女の人は言った。
そういうことじゃなくて、水と言ったけれど井戸でくむ水のことじゃなくて、と言いたくなるような場面だ。けれどイエスは何故か女の人の誤解を正そうとはしないで「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言って次の質問に移っていった。女の人は「わたしには夫はいません」と言った。それに対してイエスは、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と言う。
それに対してこの女の人は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って礼拝すべきところはどこなのか、というような話を持ち出してきた。夫のことは触れられたくない、追求されたくない、そんな気持ちから話しを変えたかったんじゃないかと思う。しかしそれに対してもやっぱりイエスはとやかく言うことはない。そして場所が問題ではなく霊と真理をもって礼拝しなければならない、という話をする。女の人は、キリストと呼ばれるメシアが来られて、一切のことを知らせてくださいますと言い、イエスはそれはこのわたしである、と答えた。
ちぐはぐな会話が続いてきたけれど、最後には彼女は町に行って、自分のことを全部言い当てた人がいます、この人がメシアかもしれません、と人々に言ったというのだ。
多分誰にも会いたくなくて、敢えて真っ昼間に水をくみに来ていた人だった。その人が頼まれもしないのに、町の人たちをイエスのもとに連れてくることになったという話しだ。14節でイエスが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語っているが、この女の人の内にはすでに泉が湧き上がっているようだ。
傷
「夫をここに呼んで来なさい」と言ったことがここの話しの焦点のような気がしている。というか、この事が一番気にかかる。
きっと彼女は五回の結婚と五回の別れによって、人に言えない苦しい思いをずっと持ちつづけてきたのだろう。周りから白い目で見られていることで余計に苦しくなっていたのだろう。男性関係のことが話題になるたびに周りから責められ続けてきたのではないかと思う。どういういきさつでそうなったのは分からないし、彼女が悪かったのかどうかも分からない。けれどもそのことは、この女の人にとってはそんな誰にも触れられたくない、そして触れる度に苦しく悲しい思いになる、そんな傷だったんじゃないかと思う。
イエスはその傷に手を触れたんだと思う。「ありのままを言ったわけだ」と言った。しかし責めることも咎めることもなかった。自分のことは何でも知っている、知られたくない事も知っている、しかしそんな自分をそのまま受け止めてもらっている、知られても大丈夫なんだ、イエスとの話しを通してこの女の人はそんな思いを持ったのではないかと思う。
知られているということは隠さなくてもいいということだ。隠したいというのはそれを知られることで責められたり除け者にされたりするという恐れがあるからだろう。
僕はええ格好をしようとしてする。格好良いところだけを見せびらかして、駄目な自分を一生懸命に隠している。でもそうやって本当の自分を隠そうとすればするほど、それがばれることを恐れる気持ちも強くなる。
でも全部知られていることが分かってしまえば、それでもそんな自分をそのままに受け止めてもらっていることが分かれば恐れもなくなるわけだ。イエスとの出会いはそんな出会いなのだと思う。
手当て
人は誰でも心の奥底に、少し触れるだけで痛くなるような傷を持っているのだと思う。何かが触れる度に全身に痛みが走るようなそんな傷を誰もが持っているのではないか。あの時あんなことをしてしまった、あんなことを言ってしまった、あるいはあの時は何も出来なかった、何も言えなかった、そんないろんな傷を誰もが持っているのではないか。
そしてこんな醜い思いを持っている自分は駄目だ、こんな汚い過去を持っている自分は駄目だ、やっぱり自分は駄目なんだという思いになって落ち込んでしまう。誰にも知られないように密かに持っているそんな傷に触れられることを恐れ、少し触れられるだけで痛い思いをする。誰かに指摘されたり、時には自分で触れてしまって、やっぱり自分は駄目なんだと自分で自分自身で恥じ、こんな自分では駄目なんだと、自分自身で責めてしまう、そんな傷を誰もが持っているのではないかと思う。
このサマリアの女性は、後ろめたい過去を引き摺り、それを恥じてそんな自分を誰よりも自分自身で責めて生きてきたのだろう。だから周りの人との交わりを避けて生きてきたのだろうと思う。
しかしイエスとの出会いによってこの女性は変わっていった。何もかも知られている、けれどもそれを責めることも糾弾することもバカにすることもなく、正面から向き合ってくれた。そんなイエスとの出会いによってこの女性は変えられていったのだろうと思う。
イエスは夫を呼んで来なさいと言うことで、この女性の心の傷に手を当ててくれたのだと思う。それは他の誰から触れられても傷まないように、そして自分自身で触れてしまって傷むこともないように、イエスが優しく手を当ててくれているような感じがしている。
そんなイエスに出会うこと、自分の傷に手を当ててもらうこと、それこそが礼拝なのだ、場所は問題ではない、形も問題ではない、見えない神と、見えないイエスと真正面から向き合うこと、傷に優しく手を当ててもらうこと、それこそが礼拝だ、「さあ、見に来てください」(29節)この福音書はそう私たちに告げているような気がしている。
イエスはサマリアの女の人に「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言った。私たちには何と言われるのだろうか。私たちにも、あなたを痛め苦しめているものを見せて欲しいと言われているのではないか。そして、もう痛い思いをしてはいけない、自分で痛めつけてもいけない、あなたは駄目じゃない、決して駄目じゃない、ありのままのあなたを愛している、ありのままのあなたが大切なんだ、イエスは私たち一人一人にそう語りかけているのではないか。