礼拝メッセージより
John 3・16
オリンピックやワールドカップなんかで、よくスタジアムに大きな横段幕を出して応援している。その中に時々、「John 3・16」と書いた横段幕が出ていることがある。
このヨハネによる福音書3:16は、小さな聖書とか小さな福音書とか言われることもあるようで、聖書をギュッとまとめるとこの言葉になる節になると言われるような箇所だそうだ。
ニコデモ
この言葉は3章の前半を見ると、もともとはニコデモという人がイエス・キリストとの会話から出来た言葉ということになっている。
ニコデモはファリサイ派、ユダヤ人の議員、最高法院の議員であった。ということはそれなりの年齢でそれなりの力も持っていたということか。
そのころニコデモが属していたファリサイ派とイエスとは敵対関係に近いような関係だったようだ。そんな相手に対して、先生と言って話し掛けている。ということはよほど何かを求めていたのか、何かに悩んでいたということかもしれない。
ファリサイ派の多くのものは自分達は正しいと思っていたようだ。自分達こそ正しいことをしている、自分達のしていることこそ絶対なのだと思っていたようだ。そして自分たちと同じようにしない、出来ない者を見つけだしては、お前は間違っていると言う。お前は間違っているから正しくしろ、俺たちのようにしろと言っていたようだ。そしてそうしない者や出来ない者を排除し見下していたらしい。
しかしニコデモはそんな多くのファリサイ派の者とは違っているようだ。自分が間違ったことをしている、と思っていたかどうかは分からないが、自分のしていることが本当に正しいのかということを考えていたのではないか。ずっと正しいことを追い求めていたと言うことだと思う。逆にいうと、自分にも間違いがあるかもしれない、という思いをずっと持っているということだと思う。だからこそ真実を探してイエスのもとにやってきたのだろう。
周りの仲間たちが、あいつはけしからん奴だ、神を冒涜している、と言っていたであろう状況の中でも、ニコデモはずっと冷静にイエスを見ていたのではないか。そう言う点ではとても優れていた人のように思う。
パウロもフィリピの信徒への手紙3:12で「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」と語っている。これに似たような気持ちだったのかなと思う。
新しく生まれる
イエスはニコデモに対して「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言った。そんなこと言われても、一体何を言ってるんだろうと思う。ニコデモは年取ったものがもう一度母親の胎内に入ってからまた生まれるなんてできないでしょう、なんて答えているが誰だってそう思うだろうと思う。
この新しく生まれるということについてイエスは、霊から生まれるとか、永遠の命を得るという言い方もしている。つまりイエスが新しく生まれるといったのは、神によって生まれるというような、神に従って生きて行くといった、そういう意味でも新しい人生を始めるというような意味だったのだろうと思う。
水と霊によって
イエスはここで、水と霊によって生まれなければ神に国に入ることはできない、てなことも言っている。これは、「悔い改めて、決定的にからだの向きを変えねばならない。具体的に生き方を変え、自分の力によって救いを得ようとするのをあきらめ、神の力によって新しく生きなさい」(聖書教育)ということのようだ。
さらにイエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」という。どうすれば神の国を見ることができるか、神の国に入ることができるか、そんなことを人は一生懸命に考える。しかしそのことを私たちは分からない。ただ霊から生まれることで、神によって新しくされることで神に国にはいるのだ。神がそうしてくれるから、神が招いてくれるから神の国に入れるということだ。
愛
なぜそんなことを神はしてくれるのか、その答えが3:16ということになるようだ。
神が世を愛しているからだ。独り子を与えるほどに愛してくれているからだ。そして私たちが独り子を信じて永遠の命を得るためだ。
永遠の命のいうのもよく分からないけれど、今持っている命と同じ命ということではなく、神と共に生きる命、活き活きと生きる命ということのようだ。
また御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく救うためだと言う。神によって新しく生まれさせてもらえることを信じ、神に従って生きるように、そのために御子を遣わしたというのだ。それが救いだと。
しかし信じないものは、つまり自分の力で自分を新しくし、自分の力で救いを勝ち取ろうとするものは既に裁かれている、という。それは光よりも闇の方を好むこと、光に来ないこと、それが裁きだという。どうも信じない者は地獄行きだぞ、といっているわけではないようだ。
光が来ても尚も闇の中にいること、それこそが裁きだという。神によって、神の力によって新しく生まれるというのに、それでも尚も自分の力で何とかしようとし、疲れ果ててどうにもならない、自分はもう駄目なのだ、救いようもないのだと諦め嘆いているようなものだろうか。その状態が裁かれている状態だと言われているようだ。
私たちは誰でもいろいろな重荷や傷を負って生きている。決して誰にも触れられたくないような傷跡を持っているのではないか。いやでいやで仕方ないような面を持っているのではないか。また捨ててしまいたい自分の過去をみんな持っているだろう。全部捨てたいと思うようなこともある。でも決して過去を変えることも捨てることもできない。そしてそんな苦しい過去から押しつぶされそうになる。昔から抱え続けている荷物が溜まりに溜まってとても負いきれずに倒れそうになる。
しかしイエスは、人は神によって新しく生まれることができる、という。しかも自分の力ではなく神の力によってそうなるというのだ。どうやってかは分からない、けれども新しくなるのだとイエスは言っているようだ。そこには自分の力でどうにかしなければならないという思い、自分には何も出来なかった、これからも出来そうにもない、自分はだめだという思い、そんな重荷からも解放される新しい生き方がある。
そんな新しい生き方、新しい命、それが永遠の命というものなのかなと思う。自分がどうであるかと自分のことだけを見るのではなく、神がどうあるのかと神に目を向ける生き方なのだろう。神が自分のことを愛してくれていることに目を向ける新しい生き方、神からこのありのままの自分を愛されるという生き方、それが永遠の命なのではないかと思う。
そんな永遠の命へと神が招いてくれている。私たちがすることはただ信じること、ただ受けることだ。