礼拝メッセージより
言
この箇所は創世記の最初にちょっと似ている。創世記では、神が光りあれと言われることで光ができ、水の中に大空あれ、水と水をわけよと言われてそのようななったことが書かれている。
神の言葉によって天地ができたというのだ。神の言葉はただの文字ではなくてそんな力のある言葉らしい。人間の語る言葉とは違うようだ。人間だって言葉によって人を殺すようなこともあり、言葉によって勇気づけ力づけ慰めることもある。人の言葉だってそうなのだが、神の言葉とはそれ以上に力あるものなのだろう。
ヨハネによる福音書では冒頭に「言」という言葉が出てくる。
この言とイエス・キリストのことのようだ。
その言は世のはじめから天地がつくられる前からあった、神と共にあった、神であったというのだ。イエスは天地が造られる前からいる神なのだと言っている。
そして世界はこの言によって、つまりキリストによってできたという。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16)
すべてのものはキリストによってできたということは、この世界はキリストの世界、キリストとの関係によってできた世界。世界はキリストのもの。神のもの。だから世界はキリストとの関係の中で生きるのがこの世界に生きるものの正しい姿ということになる。
またキリストが全ての物を造ったということは、私たちに関わるものすべてがそのまま神から造られたものでもあるということだ。私たちがどこにいても、どんな時も全部神との関係の中にあるということだ。神から離れて、神との関係のない時を過ごす、神との関係のない所にいる、なんてことは有り得ないということのようだ。
光
そしてこの言の内に命があった、そしてこの命は人間を照らす光であったという。そしてその光は暗闇の中で輝いている。暗闇の中で光を見つけることの喜びを思う。実際に物理的な暗闇も余り気持ちのいいものではないが、人生の暗闇に遭遇するとどうしようもなくなる。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか、分からない。しかし、イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている、そんなすべての人を照らす光であるという。
そんな言が肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間として生きたというのだ。神はかつては言葉をもって人との関係を持っていた。これをこうしなさい、ああしなさい、という言葉を人に語っていた。旧約聖書では預言者が神の言葉を伝えたことが書かれている。しかし神はただ言葉を語るだけではなく、人間となってやってきた、実際に肉体をもってやってきた、それがイエス・キリストであるとこの福音書は告げている。
この福音書の著者は難しい言葉でイエス・キリストのことを説明しようとしている。なんだか分かるような分からないようなというのが正直な気持ちだけれど、しかしとにかく、イエス・キリストは世界が造られる時からすでにいた神であり、人間を照らす光を持ち、すべての人を照らす。その神であるイエス・キリストが地上に来られた、そして自分を受け入れるものに神の子となる資格を与えられた、と言うのだ。
イエス・キリスト
私たちはそのイエス・キリストに、肉体を持ったイエス・キリストに面と向かって会うことは出来ない。イエスを見ることもできない。しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
私たちはその言を聞くことでイエスと会っているともいえるのだと思う。
言葉は紙に書けばただの文字であり、話せばただの音である。でもその言葉を聞くことで私たちは一喜一憂する。それはその言葉を通して相手の気持ちや愛などを感じ取るからだろう。
暗闇の中で
何回も話したことがあるけれど、昔たまたま本屋で水越恵子という歌手の本を見かけてぱらぱらと読んだことがある。後でネットで調べると、彼女は結婚して子どもを産み、その子がダウン症だった。その後離婚して一人で子育てをしている、と書いてあった。
そんなこともあって、すごく疲れて大変な時期にどこかの街に演奏に行った時のことだそうだ。空き時間にホールの近くの公園に行った時、たまたま座ったベンチに誰かが落書きをしていたそうだ。それが、「だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」だったと思う。彼女はそれが誰の言葉かも知らなかったみたいだけど、それを読んですごく楽になったと書いていた。まさに暗闇の中で出会った光だったのだと思う。
「幸福にもっとも重要なのは、喜んでありのままの自分でいられることで ある。」(エラスムス−神学者、カトリックの司祭)
私たちも度々人生の暗闇に遭遇する。いろいろな困難が私たちを苦しめる。何より私たちを苦しめるのは、自分が自分でいいと思えないこと、こんな自分では駄目なのだと思うことではないかと思う。お前には能力がない、知識もない、きっとまた失敗する、そんなことではまだまだだ、やっぱりお前は駄目だ、私たちは誰もがそんな声を聞かされて生きてきているように思う。そして失敗したり躓いたりする度に、かつて聞いたそんな声が甦ってきては私たちを苦しめ、生きる力を奪っていく。
しかしそんな私たちにイエスは語りかけてくれている。思い煩うな、一日の苦労はその日だけで十分だ、いやお前は駄目じゃない、お前はそのままでいい、お前はすばらしい、お前が大事だ、何があっても私はお前の味方だ、聖書はそんなイエスの声に満ちている。
それは私たちの人生を照らす光、真っ暗闇の中で輝く、真っ暗闇を打ち破る光なのだ。そんな光に私たちはもうすでに照らされている。