礼拝メッセージより
「正しく生きられない人と共に」 2019年12月8日
メシア
マタイによる福音書はユダヤ人向けに書かれているようだ。22節に「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とあるように、旧約聖書を引用してその言葉が実現したというような言い回しが度々出てくる。
そしてユダヤ人たちはやがてメシアがやってくるということ、そのメシアはダビデ家の家系でベツレヘムで生まれると信じられていたようだ。
マタイはそのユダヤ人に向けて、イエスこそ約束されたメシア、救い主であるということを伝えようとしているようだ。そのために福音書の始めには長々と系図が書かれていて、イエスの父とされたヨセフがダビデ家の家系であると告げている。
インマヌエル
そして今日の所では23節に旧約聖書の引用がある。
23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これはイザヤ書7章14節にある言葉の引用だ。
イザヤ書7章14-17節では、「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主はあなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」
イザヤがこの言葉を告げた時代、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていた。当時は北の方にあるアッシリアという強い国の脅威にさらされていた。アッシリアに近い北イスラエル王国と、その北にあるアラムという国は同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしていた。そして南ユダ王国も一緒になろうと持ちかけてきたが南ユダ王国は仲間に加わらなかった。そうすると北イスラエルとアラムは南ユダに攻めて来た。当時の南ユダ王国のアハズ王はアッシリアに助けを求めようとした。
そんな時にイザヤはアハズ王に面会して、アッシリアではなく神に助けを求めるようにと進言したがアハズ王は神ではなくアッシリアに援軍を求めた。イザヤの進言を断るアハズ王に与えられた言葉が、マタイが引用している「見よおとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というものだった。
その後アハズの子ヒゼキヤが次の王となり、ヒゼキヤ王はアッシリアとの関係を絶って、神殿から偶像を取り除いた。イザヤ書9章5節に「ひとりのみごりごがわたしたちのために産まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。」とあるが、これはイザヤがヒゼキヤ王の即位を喜ぶ言葉だと考えられているようだ。
つまりイザヤはインマヌエルはヒゼキヤ王であると告げていて、ヒゼキヤ王は神に助けを求め、アッシリアはエルサレムを包囲したものの疫病が発生し撤退することになり、イザヤが預言したようにヒゼキヤ王はユダ王国の窮地を救った。
おとめ
そのイザヤ書をマタイは引用しているわけだ。
「おとめが身ごもって男の子を産む」と書かれているように、イエスは処女であるマリアから生まれてきたように書かれている。処女から生まれるなんてすごい、やっぱりイエスは特別なんだと思っていたけれど、それ以前からも偉大な人物と言われる人の中に、父親がなしに母親からだけ生まれていたと言われている人がいっぱいいるそうだ。マケドニアのアレキサンダー大王もローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスもプラトンも処女から生まれたと言われているそうだ。
父親が誰なのかということははっきりしづらい面がある。逆に母親から産まれたということは周りの人間にも認識できるし誤魔化しもできない。そんなこともあって偉大な人物はたびたび父がいないという特別な生まれ方をしていると言われていたそうで、マタイもそれに倣っているのかもしれない。
またこのイザヤ書の中の「おとめ」と訳されている言葉は、元々のヘブライ語では若い女性のことを現していて処女という意味はないそうだ。後々旧約聖書がギリシャ語に訳されて、そのときにおとめというような処女を意味する言葉に訳されていたそうで、マタイもそのギリシャ語に訳されている言葉を引用しているそうだ。
マタイは聖霊によって宿ったということを通して、イエスこそが民を救うために神の使命を帯びて神から遣わされたキリストであることを言いたいのだと思う。
正しく清く美しく
ところで神から遣わされた救い主、キリストであるならば、きれいなところで立派に生まれてくればいいように思うけれど、ここではそうは言われていない。
マタイはメシアがダビデ家の家系に生まれるというユダヤ人の期待に応えるように長々と系図を載せている。しかしそこには数人の女性の名前が登場する。異邦人といわれる人、舅にだまされたため逆にその舅を騙してその舅との間に子をもうけた人、遊女であった人、人妻であったのに王に見そめられて強引に妻とされた人、そしてマリア。
マタイは男ばかりの家系図の中に、ユダヤ人にとって汚点と思えるような事柄に関係している女性の名前を載せている。そこにマリアの名前も載せているということは、実はマリアにとっても汚点と言われるようなことがあったということかもしれない。もちろん定かではないけれど。
マタイは面白いことに、ここでマリアの許嫁のヨセフのことを正しい人であったと書いている。
正式に結婚する前に妊娠するなんてことは許されないことだった。そうなった時にユダヤ人とすればマリアを離縁することが正しいことであったようだ。しかしヨセフはその正しく生きることを神によって止められてしまった、正しくないと言われる、正しくないと思っている、そっちへと導かれている。
正しく清く美しく生きられれば良いのかもしれないけれど、現実にはなかなかそうは行かない。立派に堂々と生きられればいいと思うけれど、自分はそんな立派な人間ではないし、そうできなことがいろいろと起こってくる。
良い学校に行き、良い会社に入り、良い家に住んで良い車を持って良い家庭を持って、いい子供を持って、病気も怪我もしないで、正直に元気に立派に生きていたいと思う。そしてそんな言わば無病息災の人生を願う気持ちは大きい。
しかし実際にはなかなかそう出来ないし、立派に正しくなんて全然いかない。思うようにいかないことだらけだ。
しかしそんな正しく生きられない、立派に生きられない、そんな私たちの下にキリストが生まれた、インマヌエルのキリストが生まれた、マタイは私たちにそのことを伝えているのではないだろうか。
そしてイエスの生き様はまさにそんな正しく生きられないことで差別され除け者にされていた人達と共に生きる、そんな人達に神の愛を伝える、神が共にいることを伝えるそんな生き方だった。
正しく生きられないということで人から責められ、自分でもこんな自分は駄目だと思っている人達と共に生きる、そんな生き方だった。そしてあなたは駄目じゃない、あなたが大事なんだ、あなたを愛している、いつもあなたと共にいる、そんな神の思いを伝えてくれた。
イエスはまさに、正しく立派に生きられない者たちの中に生まれた。そしてこんな自分は駄目だと自分自身を嘆き、自分で自分を責める、そんな人達と今も共にいる。
マタイはそのことを伝えようとしているのではないかと思う。
これがクリスマスのメッセージです。私たちは決して一人ではありません。
(テイラー・キャルドウェル/小説家)
処女から生まれたかどうかなんてのは大した問題ではない。そうかもしれないしそうではないかもしれない。
そんなことより、イエスは生まれた、そして今もこの私と共にいる、正しく立派に生きられない、間違いと失敗だらけのこの私と共にいる、どういう形でかもよくわからない、けれど今も共にいる。だから私は一人ではない、決して一人にはならない、クリスマスはそのことを知る時なのだと思う。